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NBA

“レブロン&コビー”幻に終わった2大メガスターのトレード話【NBA秘話】

大井成義

2019.11.10

2006年、28歳とキャリアのピークを迎えていたコビーだったが、レイカーズはプレーオフで早期敗退。補強の進まないチームにエースのフラストレーションは溜まる一方だった(C)Getty Images

2006年、28歳とキャリアのピークを迎えていたコビーだったが、レイカーズはプレーオフで早期敗退。補強の進まないチームにエースのフラストレーションは溜まる一方だった(C)Getty Images

 コビーとシャキール・オニールという強烈なワンツーパンチに、名将フィル・ジャクソンの巧みな采配を加えたレイカーズは、2000年から怒涛の3連覇を達成する。だが、性格が両極端なコビーとシャックは衝突を繰り返し、その関係は修復不能なまでにこじれていた。そしてついに、双方がトレードを要求するという最悪の事態に発展する。最終的にフロントはシャックを放出し、コビーにチームの将来を託すという選択を下したのだった。

 3度の優勝すべてにおいて、ファイナルMVPはシャックが獲得している。そのことは、人一倍負けず嫌いのコビーにとってある種の屈辱であり、シャック抜きで、己の力で新たな優勝をもぎ取ることが最大のモチベーションとなっていた。

 シャックがチームを去ってから3年目の2006-07シーズン、28歳のコビーはキャリアのピークを迎えつつあった。2年連続で得点王に輝き、1試合50得点以上を10度記録するなど、リーグのトップスコアラーとして不動の地位を確立。だが、突出した個人成績とは裏腹に、チームは2年連続でプレーオフ1回戦敗退を余儀なくされる。その原因がサポーティングキャストの力不足にあることは、誰の目にも明らかだった。いくら要請しても遅々として補強の進まないチーム状況に、コビーのフラストレーションは限界に達していた。

 ESPNのバクスター・ホームズ記者に、コビーは当時を振り返って次のように語っている。
「あの時、レイカーズは何かをやらなければならなかった。俺は彼らがやろうとしていることに対し、信頼を失っていたよ。俺は単に彼らの飯のタネのような存在だった。1試合40~50点取り、アリーナを満杯にし、給料を最低限に抑えてチームに収益をもたらす。でも俺が望んでいるのはそんなことじゃない。シャック抜きで勝たなくてはならない。俺はそいつをやらなくちゃならなかったんだ」。

 ただただシャックに勝ちたい――。大人げない、と見る向きもあるだろうが、実際に何度もそう発言している以上、紛うことなき本心だったのだろう。かつては同期のアレン・アイバーソンに激しいライバル心を燃やすあまり、ひたすら強迫観念を抱いていたと告白しているコビーのこと、とりたてて異常な考え方ではないのかもしれない。

 1996年のドラフトで高校を卒業したばかりのコビーを獲得し、同年のオフにシャックをFAで獲得するという大仕事をやってのけたのは、レイカーズ・レジェンドの1人、ジェリー・ウエストGM。2000年からの3連覇は、ウエストが集めた選手やスタッフによって成し遂げられたようなものだった。そのウエストが、2002年に突如レイカーズから去り、グリズリーズのGMに就任する。当時の新聞記事によると、他のフロント陣、特にジャクソンHCとの確執が、チームを離れた理由のひとつと考えられているようだ。ウエストを父のように慕っていたコビーにとって、彼の離脱はショック以外の何物でもなかった。
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