【シューティングガード】
ジョー・デュマ―ス(マクニース州大)
1963年5月24日生。191センチ・88キロ
カレッジ成績:116試合、平均22.5点、4.2リバウンド、2.8アシスト
NBA成績:1018試合、平均16.1点、2.2リバウンド、4.5アシスト
ルイジアナ州にあるマクニース州大は、トーナメント出場がわずか2回のみ、それもデュマ―スが卒業してからのこと。NBA選手も今に至るまで6人、しかもデュマース以外の5人の合計出場試合数は205にしかならない。
そんな無名校に通ったデュマ―スは、1985年のドラフト1巡目18位指名でデトロイト・ピストンズに入団。堅実無比なプレーぶりで主にディフェンス面で活躍し、その守備力はマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)が「最もタフなディフェンダーの1人だった」と認めたほど。実際にオールディフェンシブチームには5回選ばれている。
攻撃面では勝負強さに定評があり、1989年のファイナルでは平均27.3点をあげMVPに輝いた。“バッド・ボーイズ”と呼ばれた荒くれ者集団だった当時のピストンズにあって、唯一の優等生として敬意を集めた人格者でもあり、1996年は新たに創設されたスポーツマンシップ賞を受賞。同賞はその後『ジョー・デュマース賞』と改称されている。その才覚はエグゼクティブとしても発揮され、2004年に球団社長としてピストンズを優勝に導いた。
【スモールフォワード】
スコッティ・ピッペン(セントラルアーカンソー大)
1965年9月25日生。203センチ・103キロ
カレッジ成績:93試合、平均17.2点、8.1リバウンド、2.7アシスト
NBA成績:1178試合、平均16.1点、6.4リバウンド、5.2アシスト
ラリー・バード(元ボストン・セルティックス)の出身校インディアナ州大も小さな学校だが、それでもピッペンの母校とは比べものにならない。ディビジョン1に昇格したのは2006年で、トーナメント出場経験なし、輩出したNBA選手もピッペンただ1人。そのような弱小校ですら、彼は高校のコーチの伝手を頼って入学し、マネージャー兼任で入部した程度の存在だった。
しかしながら、入学後は急激に実力をつけていき、1987年のドラフト1巡目5位でシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)に指名されると、直後のトレードでブルズへ加入。ジョーダンの最高の相棒としてオールディフェンシブチームに10回、うち1stチームに8回選出され、ブルズの6度の優勝に大きく貢献した。
1994-95シーズンには、得点・リバウンド・アシスト・スティール・ブロックの全部門でチームトップという、史上4人しか達成していない快挙を達成。また1992年のバルセロナ五輪、1996年のアトランタ五輪と、オリンピックの舞台でも2度金メダルを獲得した。
ジョー・デュマ―ス(マクニース州大)
1963年5月24日生。191センチ・88キロ
カレッジ成績:116試合、平均22.5点、4.2リバウンド、2.8アシスト
NBA成績:1018試合、平均16.1点、2.2リバウンド、4.5アシスト
ルイジアナ州にあるマクニース州大は、トーナメント出場がわずか2回のみ、それもデュマ―スが卒業してからのこと。NBA選手も今に至るまで6人、しかもデュマース以外の5人の合計出場試合数は205にしかならない。
そんな無名校に通ったデュマ―スは、1985年のドラフト1巡目18位指名でデトロイト・ピストンズに入団。堅実無比なプレーぶりで主にディフェンス面で活躍し、その守備力はマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)が「最もタフなディフェンダーの1人だった」と認めたほど。実際にオールディフェンシブチームには5回選ばれている。
攻撃面では勝負強さに定評があり、1989年のファイナルでは平均27.3点をあげMVPに輝いた。“バッド・ボーイズ”と呼ばれた荒くれ者集団だった当時のピストンズにあって、唯一の優等生として敬意を集めた人格者でもあり、1996年は新たに創設されたスポーツマンシップ賞を受賞。同賞はその後『ジョー・デュマース賞』と改称されている。その才覚はエグゼクティブとしても発揮され、2004年に球団社長としてピストンズを優勝に導いた。
【スモールフォワード】
スコッティ・ピッペン(セントラルアーカンソー大)
1965年9月25日生。203センチ・103キロ
カレッジ成績:93試合、平均17.2点、8.1リバウンド、2.7アシスト
NBA成績:1178試合、平均16.1点、6.4リバウンド、5.2アシスト
ラリー・バード(元ボストン・セルティックス)の出身校インディアナ州大も小さな学校だが、それでもピッペンの母校とは比べものにならない。ディビジョン1に昇格したのは2006年で、トーナメント出場経験なし、輩出したNBA選手もピッペンただ1人。そのような弱小校ですら、彼は高校のコーチの伝手を頼って入学し、マネージャー兼任で入部した程度の存在だった。
しかしながら、入学後は急激に実力をつけていき、1987年のドラフト1巡目5位でシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)に指名されると、直後のトレードでブルズへ加入。ジョーダンの最高の相棒としてオールディフェンシブチームに10回、うち1stチームに8回選出され、ブルズの6度の優勝に大きく貢献した。
1994-95シーズンには、得点・リバウンド・アシスト・スティール・ブロックの全部門でチームトップという、史上4人しか達成していない快挙を達成。また1992年のバルセロナ五輪、1996年のアトランタ五輪と、オリンピックの舞台でも2度金メダルを獲得した。