その実力は、ABA時代に対戦経験のあるジュリアス・アービング(元フィラデルフィア・セブンティシクサーズほか)をして「最もディフェンスするのが難しかった選手の1人」と言わしめたほど。なお18年には、コールドウェルの孫にあたるマービン・バグレー三世(デューク大)が、祖父と同じ2位指名でサクラメント・キングスに入団した。
コールドウェルと入れ替わりに入学したフレディ・ルイス(元インディアナ・ペイサーズほか)は、ABAで4度オールスターに出場し、75年大会ではMVPを獲得。通算得点はABA史上6位、アシストは4位にランクされている。
75年には3度目の準々決勝進出。その原動力となったライオネル・ホリンズは、同年のドラフト6位でポートランド・ブレイザーズに入団すると、攻守に手堅いプレーを披露し、77年のファイナル第6戦では20得点、4スティールと奮闘。球団史上初にして唯一となるリーグ制覇に大きく貢献した。
引退後は背番号14がブレイザーズで永久欠番となったほか、メンフィス・グリズリーズとブルックリン・ネッツのHCを歴任。特にグリズリーズでマークした通算214勝は、球団史上最多記録である。
81年はAP通信の最終ランキング3位、そして第2シードの獲得と、学校史上最高の成績をマーク。しかし肝心のトーナメントでは、第7シードのカンザス大に敗れ2回戦で姿を消した。ただ、この年から3年続けてドラフト1巡目指名選手を送り出している。
アルトン・リスター(81年1巡目21位/元ミルウォーキー・バックスほか)は幻に終わった80年モスクワ五輪のアメリカ代表メンバー。213cmの長身からリバウンドとブロックを量産し、通算1473ブロックは2位に倍以上の差をつけ、ASU出身者のなかでトップに立っている。
82年に11位指名を受けブレイザーズ入りした“ファット”ことラファイエット・リーバーは、ポイントガードながらリバウンドに異常な強さを見せ、ナゲッツ時代の89、90年は2年続けて平均9.3本を奪取。通算43度のトリプルダブル達成は、94年の引退時点で5位という真のオールラウンダーだった。
コールドウェルと入れ替わりに入学したフレディ・ルイス(元インディアナ・ペイサーズほか)は、ABAで4度オールスターに出場し、75年大会ではMVPを獲得。通算得点はABA史上6位、アシストは4位にランクされている。
75年には3度目の準々決勝進出。その原動力となったライオネル・ホリンズは、同年のドラフト6位でポートランド・ブレイザーズに入団すると、攻守に手堅いプレーを披露し、77年のファイナル第6戦では20得点、4スティールと奮闘。球団史上初にして唯一となるリーグ制覇に大きく貢献した。
引退後は背番号14がブレイザーズで永久欠番となったほか、メンフィス・グリズリーズとブルックリン・ネッツのHCを歴任。特にグリズリーズでマークした通算214勝は、球団史上最多記録である。
81年はAP通信の最終ランキング3位、そして第2シードの獲得と、学校史上最高の成績をマーク。しかし肝心のトーナメントでは、第7シードのカンザス大に敗れ2回戦で姿を消した。ただ、この年から3年続けてドラフト1巡目指名選手を送り出している。
アルトン・リスター(81年1巡目21位/元ミルウォーキー・バックスほか)は幻に終わった80年モスクワ五輪のアメリカ代表メンバー。213cmの長身からリバウンドとブロックを量産し、通算1473ブロックは2位に倍以上の差をつけ、ASU出身者のなかでトップに立っている。
82年に11位指名を受けブレイザーズ入りした“ファット”ことラファイエット・リーバーは、ポイントガードながらリバウンドに異常な強さを見せ、ナゲッツ時代の89、90年は2年続けて平均9.3本を奪取。通算43度のトリプルダブル達成は、94年の引退時点で5位という真のオールラウンダーだった。
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