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NBA

伝説となった“ドリームチーム”の軌跡ーーそして世界中にバスケット“バブル”が生まれた【五輪史探訪|1992年バルセロナ後編】

出野哲也

2019.11.07

バスケ人気を世界規模に広げた功績が称えられ、ドリームチームは2010年に殿堂入り。(C)Getty Images

バスケ人気を世界規模に広げた功績が称えられ、ドリームチームは2010年に殿堂入り。(C)Getty Images

 決勝の相手は、将来リーグ入りする者を含め5人のNBA選手を擁し、準決勝ではCISを1点差で破ったクロアチア。アメリカはのちにブルズでチームメイトとなるクーコッチをジョーダンとピッペンが完全に封じると、オフェンスでは22得点をマークしたジョーダンを筆頭に7人が2桁得点を奪取。試合序盤から主導権を一切譲らず、117-85で完勝を収めた。

 全試合で100点以上を記録したのはオリンピック史上初。メンバーは口を揃えて「人生で最高の経験」とこの大会を振り返っており、2010年にはチーム全体でバスケットボール殿堂に迎えられた。

 3位決定戦ではサルナス・マーシャローニスが29得点、アルビダス・サボニスも27得点をあげたリトアニアが、82-78でCISを下し銅メダルを獲得。長年支配下に置かれていたロシアを打ち倒したことで国中が歓喜に沸き、この時の代表メンバーはリトアニアで〝もうひとつのドリームチーム〞と呼ばれている。
 
 バルセロナ五輪が開催されるまで、多くの国ではNBAスターの名前は聞いたことがあっても、実際のプレーを観る機会はほとんどなかった。それがオリンピックという最高の舞台で、ジョーダンやドレクスラーのダンク、マジックのノールックパス、バークレーやマローンのパワープレーなどを目の当たりにしたことで、NBAへの関心は世界中で飛躍的に高まっていった。

 日本も例外ではなく、『ダンクシュート』誌でもお馴染みのNBAライター、宮地陽子氏は「(オリンピック直前の)92年のファイナルを取材していた日本のメディアは私とカメラマンだけだったのが、翌年のファイナルは20社を超えていた」と振り返っている。

 地元バルセロナで直に熱狂に触れたパウ・ガソルが「いつか僕もあのレベルに達することができるのだろうか」と考えたように、ドリームチームをきっかけにNBAを志した選手は多い。世界各国の競技レベルも格段に向上し、04年のアテネ五輪では、アルゼンチンがアメリカを下して金メダルに輝いている。〝ドリームチーム〞とはまさしく、バスケットボールを世界中に広めた伝道者、12人の使徒であったのだ。

文●出野哲也(フリーライター)

※『ダンクシュート』2019年9月号より転載。
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