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NBA

【追悼コラム】Mamba Forever――不世出の名選手コビー・ブライアントよ、永遠に〈DUNKSHOOT〉

大井成義

2021.01.26

レイカーズの選手たちはコビーの死後最初の試合、レジェンドの番号である8と24のジャージーを着用。ゲーム前のイントロダクションでは、先発全員が「コビー・ブライアント」として紹介された。(C)Getty Images

レイカーズの選手たちはコビーの死後最初の試合、レジェンドの番号である8と24のジャージーを着用。ゲーム前のイントロダクションでは、先発全員が「コビー・ブライアント」として紹介された。(C)Getty Images

 ルーキーイヤーのコビーは、レギュラーシーズンこそ出場時間が限られていたものの、オールスターのスラムダンク・コンテストで史上最年少優勝をドヤ顔で飾り、一躍世界にその名を知らしめた。コンテストの解説を務めていた元NBA選手のレジー・セウスは、コビーを〝cocky(自信過剰な、生意気な、自惚れた)〞と繰り返し表現。決してネガティブな意味で言っていたわけではなかったが、この頃からすでに、軽く鼻につく感じの生意気臭を漂わせていたように思う。

 そしてプレーオフのカンファレンス準決勝でやらかした、伝説の〝5分間に4本のエアボール〞。あの時、ルーキーの独りよがりなプレーに唖然とすると同時に、末恐ろしさを感じたことも確かだ。このメンタルの強さと負けず嫌いっぷりは尋常じゃない、こいつはもしかしたらもしかするぞ、と。そしてその予感は現実となった。

 レイカーズは1999-00シーズンから、シャキール・オニールとコビーの強力デュオを中心に、3連覇という偉業をやってのける。リーグ屈指のSGへと成長したコビーは、常に自信に満ち溢れ、憎たらしいまでの勝負強さを誇る一方で、セルフィッシュなプレーも時折見受けられ、時には行き過ぎた言動も目に付いた。それゆえアンチも一定数存在し、マイケル・ジョーダンの若い頃のような、万人が憧れる国民的スターとは一線を画していた。
 
 2000年4月、ステイプルズ・センターで行なわれたニックス対レイカーズ戦。クリス・チャイルズとコビーが一悶着を起こし、チャイルズがコビーの顎にきれいなワンツーをお見舞いした時などは、その愚挙に呆れながらも、随分と溜飲が下がったものだ。

 そして世紀の大騒動となったのが、2003年に全米を揺るがしたレイプスキャンダルだった。あの後しばらくの間は、すべてのアリーナで強烈なブーイングを食らい、メディアに追いかけ回され、叩かれ、スポンサーは逃げていった。裁判所へ出頭するために試合を休まなければならない日もあり、また裁判所から直接アリーナに向かう日もあった。精神的に最も辛い時期だったろう。アンチから見ても不憫に思えるほどだった。

 シャックやフィル・ジャクソンHCとの確執と別れ。トレード志願。指の骨折や慢性的なヒザの痛みをはじめとする、全身を襲うケガ。それらの代償を支払いながらも、2009、10年と、チームリーダーとして悲願の2連覇を達成する。満身創痍の身体に鞭打って、さらには異常とも思えるほどハードな練習を己に課し、困難を乗り越え、結果を出すことで、コビーはブーイングをより大きな歓声に変えていった。

 アンチコビーを自認する僕でも、彼の持つ異常なまでの精神的強さには、唸らざるを得なかった。そして、心待ちにしていたニックス戦で披露される、コビーのゴージャスで勝負強いプレーの数々には、歯軋りするほど悔しいながらも、見とれる以外なかった。
 

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