もちろん実戦でも彼らはダンクを決めまくり、ランキング1位でトーナメントに臨んだ1983年は、順当に決勝戦まで駒を進める。しかしノースカロライナ州大との大一番では、後半に一時7点のリードを奪うも最終局面で逆転負け。決勝点がロレンゾ・チャールズのダンクだったのが何とも皮肉だった。
ドレクスラーは同年のドラフトで1巡目14位指名を受けてNBA入り。ポートランド・トレイルブレイザーズのスター選手として活躍したほか、1992年のバルセロナ五輪ではドリームチームのメンバーにも選ばれた。
■1986年にハリスHCが退任し、選手・チームともに低迷期へ
1984年もオラジュワンを中心に再び頂点を目指し、決勝ではジョージタウン大と激突。相手エースのパトリック・ユーイングとオラジュワンのビッグセンター対決が注目を集めたが、一歩及ばず2年連続の準優勝に終わった。
その年のドラフト1位でオラジュワンはロケッツに入団。ルーキーイヤーから12年連続で平均20点&10リバウンド&2ブロック以上と高いレベルで安定したパフォーマンスを披露し、リバウンド王に2度、ブロック王に3度輝いた。シーズンMVPを受賞した1994年には、ファイナルで因縁の相手ユーイングを擁するニューヨーク・ニックスを撃破。ロケッツを球団史上初のリーグ制覇に導いた。
翌1995年はシーズン途中でドレクスラーがロケッツに加入し、大学時代に一世を風靡した名コンビが復活。プレーオフでは第6シードから勝ち上がり、2連覇を達成した。この時の優勝メンバーの1人、カール・ヘレーラもヒューストン大のOBだった。
ドレクスラーは1998年に、オラジュワンは2002年に現役を引退。17年間在籍したオラジュワンの背番号34は言うまでもなく、所属期間わずか3年半のドレクスラーが着用した22番も、ロケッツの永久欠番になった。また、2人はヒューストン大でも同じ背番号が欠番となっている。
ルイスは1986年を最後に、30年間務め上げたHC職から引退。革新的で優秀な指導者であり、また南部の大学で最も早い時期に黒人選手を迎え入れた先進性が評価され、2013年にはバスケットボール殿堂入りを果たしている。
ドレクスラーは同年のドラフトで1巡目14位指名を受けてNBA入り。ポートランド・トレイルブレイザーズのスター選手として活躍したほか、1992年のバルセロナ五輪ではドリームチームのメンバーにも選ばれた。
■1986年にハリスHCが退任し、選手・チームともに低迷期へ
1984年もオラジュワンを中心に再び頂点を目指し、決勝ではジョージタウン大と激突。相手エースのパトリック・ユーイングとオラジュワンのビッグセンター対決が注目を集めたが、一歩及ばず2年連続の準優勝に終わった。
その年のドラフト1位でオラジュワンはロケッツに入団。ルーキーイヤーから12年連続で平均20点&10リバウンド&2ブロック以上と高いレベルで安定したパフォーマンスを披露し、リバウンド王に2度、ブロック王に3度輝いた。シーズンMVPを受賞した1994年には、ファイナルで因縁の相手ユーイングを擁するニューヨーク・ニックスを撃破。ロケッツを球団史上初のリーグ制覇に導いた。
翌1995年はシーズン途中でドレクスラーがロケッツに加入し、大学時代に一世を風靡した名コンビが復活。プレーオフでは第6シードから勝ち上がり、2連覇を達成した。この時の優勝メンバーの1人、カール・ヘレーラもヒューストン大のOBだった。
ドレクスラーは1998年に、オラジュワンは2002年に現役を引退。17年間在籍したオラジュワンの背番号34は言うまでもなく、所属期間わずか3年半のドレクスラーが着用した22番も、ロケッツの永久欠番になった。また、2人はヒューストン大でも同じ背番号が欠番となっている。
ルイスは1986年を最後に、30年間務め上げたHC職から引退。革新的で優秀な指導者であり、また南部の大学で最も早い時期に黒人選手を迎え入れた先進性が評価され、2013年にはバスケットボール殿堂入りを果たしている。
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