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KJの永久欠番化を“際どいジョーク”で祝ったバークレー。「素晴らしい時期も、難しい時期もあった」2人の物語【NBAデュオ列伝|後編】<DUNKSHOOT>

出野哲也

2021.06.15

 それでも、ブルズの壁は厚すぎた。第6戦、残り数秒でジョン・パクソンに劇的なシュートを決められ、最後の望みを託したKJのシュートはホーレス・グラントが阻止。4勝2敗でブルズが3連勝を果たした瞬間だった。

 この時点では、サンズにはまだまだ優勝のチャンスがあるように見えた。迎えた1993―94シーズン、開幕戦にジョーダンが引退を発表し、サンズは俄然本命視されるようになる。しかしながら、前年ほどの勢いが見られず、カンファレンス準決勝でヒューストン・ロケッツに敗退。続く1994-95シーズンも、同じくカンファレンス準決勝でロケッツに敗れた。

 バークレーとKJは、故障のため欠場する試合が目に見えて増えていった。とりわけ小さい身体でゴールに果敢に向かっていくKJのプレースタイルは、常にケガと隣り合わせ。1995-96シーズン、41勝41敗で辛うじてプレーオフに進出するにとどまると、バークレーはフェニックスを去る決意を固めた。

「このチームではもはや勝てない。俺には時間がないんだ」

 希望は叶えられ、ロケッツへのトレードが決まった。バークレーとKJは、別々の道を歩むこととなった。

 結局、バークレーは渇望していたチャンピオンリングを手にすることはできなかった。1999―2000シーズンまで現役を続けたが、ヒザの負傷で引退を余儀なくされる。1997―98シーズンを最後にコートを離れていたKJも、1年半のブランクを経てサンズに復帰したものの、すでに全盛期のキレは失われていた。
 
 彼らがチームメイトであった期間は、4年しかなかった。「彼の言動や、コート外での行動には同意できないことも多かった」とKJは振り返る。

「でもそれが彼のスタイルなんだ。楽しいヤツだし、すごく大きなハートを持っていた。チャールズは、僕が一緒にプレーした中で最も才能にあふれた選手だった」

 2001年、KJの背番号7がサンズの永久欠番となった時には、バークレーが祝福の電話をかけてきた。

「彼はこう言ってくれた。『俺が来る前も、出て行ってからも、サンズの顔はお前だった。お前ほど永久欠番の栄誉にふさわしい男はいないぜ』とね。そしてこうも付け加えた。『俺が教会に顔を出す代わりに、お前がストリップクラブに来るって約束してたよな?』」

 その後、バークレーもサンズの“栄誉の輪”に加わった。式典には姿を見せなかったKJだが、バークレーとの関係について語った言葉は、温かみにあふれたものだった。

「過去には、素晴らしい時期もあったし難しい時期もあったよ。でも昔も今も、チャールズとの友情はとても大切なものなんだ」

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2004年8月号掲載原稿に加筆・修正。

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