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NBA

“ドラフト史最大の謎”バード入団の経緯に迫る――規則の盲点を突いたセルティックスの奇策とは?【NBAドラフト史:1978年】

大井成義

2020.01.17

1位で指名されたトンプソンはスーパースターにはなれなかったが、レイカーズに移籍後、サポーティングキャストとして1987、88年の連覇に貢献した。(C)Getty Images

1位で指名されたトンプソンはスーパースターにはなれなかったが、レイカーズに移籍後、サポーティングキャストとして1987、88年の連覇に貢献した。(C)Getty Images

 そして1977年11月、SIの1977-78シーズンのプレビュー号が発売されると、バードを取り巻く環境は一変した。なにしろ、天下のSIお墨付きの“秘密兵器”である。1980年代のセルティックス・ビッグ3を描いた回想録『The Big Three(ピーター・メイ著)』の中で、バードは次のように語っている。

「あの後はまるでゴールドラッシュみたいだったよ。あの写真が俺の人生を変えた。あれ以来、誰もが俺のストーリーを手に入れようと押しかけてきた」。

 アメリカは雑誌の定期購読制度が発達しており、発行部数の多くが定期購読者に届くため、不特定多数に情報が届くテレビなどと違い影響力に限りはあったが、それでもローカル限定だったバードの名声が全国へと一気に広がった画期的な出来事だった。

 2年目のシーズンも平均30.0点、11.5リバウンドと2年連続で好成績を残し、オールアメリカ1stチームに選出。そしてシーズン終了後の6月、運命のドラフトを迎る。

 1978年4月14日、ドラフトに先駆けて1位指名権の行き先を決めるコインフリップ(コイントス)が、ペイサーズと(カンザスシティ)キングスの間で行なわれた。見事ペイサーズが勝利を収め、地元出身のスター候補であるバードを是が非でも手に入れたいと熱望した。だが、彼の置かれた状況は特殊だった。
 
 当時のドラフト規定では、大学に4年在籍した選手か、もしくは困窮家庭に暮らす選手から申請があった場合、審査を行なった上で特例として年数規定を解除する〝ハードシップ・ルール?の適用選手、そのどちらかが指名を受ける条件となっていた。

 この年は1974年入学組が大学4年を修了し、指名される権利を有していた。バードはインディアナ州大でジュニア(3年)を終えたばかり、本来ならばもう1年大学に通った後にドラフトの資格が生ずるはずだった。ところが、わずか24日間の在籍で練習にすら参加していなかったとはいえ、インディアナ大への入学が1年目にカウントされるのだという。それゆえ、ルール上は1974年組と同等の扱いとなり、各チームはこの年にバードを指名することが可能なのだった。

 ただし、バードはもう1年大学に通うことを明言している。強行指名して説得を試みたところで、翻意させることができなければ貴重な指名権をドブに捨てるようなもの。1位指名権を獲得したペイサーズは、HC兼GMのボブ・レオナルドがバードの家へ直接出向き、地元チームへの入団を懸命に勧めたが、貧しいバード家から初めての大学卒業者を出したいと母が願っていることと、NCAAタイトル獲得への挑戦を理由に、バードはその年のNBA入りを固辞。諦めざるを得なかったペイサーズは、1位指名権をトレードでブレイザーズに譲った。
 

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