6月9日、1978年のNBAドラフトがニューヨークのプラザホテルで開催された。上位指名選手は次の通り。
1位ブレイザーズ/マイカル・トンプソン(ミネソタ大4年/クレイ・トンプソンの父)
2位キングス/フィル・フォード(ノースカロライナ大4年)
3位ペイサーズ/リック・ロービー(ケンタッキー大4年)
4位ニックス/マイケル・レイ・リチャードソン(モンタナ大4年)
5位ウォリアーズ/パービス・ショート(ジャクソン州大4年)
6位セルティックス/ラリー・バード(インディアナ州大3年)
それから1年。1979年6月、NBAドラフトの約2週間前にバードはセルティックスと正式に契約を結ぶ。5年325万ドルの契約は、当時の全スポーツにおけるルーキーの中で、最も大きな契約だった。
前出の『The Big Three』によると、バードが契約を締結する少し前、ドラフトのルールに再度手が加えられたそうだ。アンダークラスマンは、もしドラフトで指名を受けたい場合、ドラフト前に大学選手資格を取り消さなければならない。すなわち、バードのように指名後大学に戻ってプレーすることができなくなったわけである。そのルールが施行されるのは、1980-81シーズンから。
1976年から80年の間のドラフトで、在学期間が残っている選手に対して都合3種類のルールが運用されたことになる。その2番目のルール適応時以外、バードがセルティックスに入ることはあり得なかった。
また、インディアナ大での24日間がカウントされず、マジックと同じ1979年のドラフト組に入っていたら、バードはマジックを抑えて1位指名選手となり、レイカーズに指名されていた可能性が高かったという。さらには、セルティックスがライバルチームの指名選手に関する情報を入手できていなかったら、ひとつ前でブレイザーズにさらわれていた。
セルティックスとアワーバックの執念に加え、様々な要素とタイミングが上手くつなぎ合わさったことにより、ボストンに後の“ラリー・レジェンド”が誕生した。そのことは、名門セルティックスに新たな黄金時代が到来することを意味していた。
文●大井成義
※『ダンクシュート』2018年5月号掲載原稿に加筆・修正。
1位ブレイザーズ/マイカル・トンプソン(ミネソタ大4年/クレイ・トンプソンの父)
2位キングス/フィル・フォード(ノースカロライナ大4年)
3位ペイサーズ/リック・ロービー(ケンタッキー大4年)
4位ニックス/マイケル・レイ・リチャードソン(モンタナ大4年)
5位ウォリアーズ/パービス・ショート(ジャクソン州大4年)
6位セルティックス/ラリー・バード(インディアナ州大3年)
それから1年。1979年6月、NBAドラフトの約2週間前にバードはセルティックスと正式に契約を結ぶ。5年325万ドルの契約は、当時の全スポーツにおけるルーキーの中で、最も大きな契約だった。
前出の『The Big Three』によると、バードが契約を締結する少し前、ドラフトのルールに再度手が加えられたそうだ。アンダークラスマンは、もしドラフトで指名を受けたい場合、ドラフト前に大学選手資格を取り消さなければならない。すなわち、バードのように指名後大学に戻ってプレーすることができなくなったわけである。そのルールが施行されるのは、1980-81シーズンから。
1976年から80年の間のドラフトで、在学期間が残っている選手に対して都合3種類のルールが運用されたことになる。その2番目のルール適応時以外、バードがセルティックスに入ることはあり得なかった。
また、インディアナ大での24日間がカウントされず、マジックと同じ1979年のドラフト組に入っていたら、バードはマジックを抑えて1位指名選手となり、レイカーズに指名されていた可能性が高かったという。さらには、セルティックスがライバルチームの指名選手に関する情報を入手できていなかったら、ひとつ前でブレイザーズにさらわれていた。
セルティックスとアワーバックの執念に加え、様々な要素とタイミングが上手くつなぎ合わさったことにより、ボストンに後の“ラリー・レジェンド”が誕生した。そのことは、名門セルティックスに新たな黄金時代が到来することを意味していた。
文●大井成義
※『ダンクシュート』2018年5月号掲載原稿に加筆・修正。