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NBA

“ドラフト史最大の謎”バード入団の経緯に迫る――規則の盲点を突いたセルティックスの奇策とは?【NBAドラフト史:1978年】

大井成義

2020.01.17

4位指名のリチャードソンは球宴に4度出場した実力派だったが、1986年に薬物規定違反でリーグから追放された。(C)Getty Images

4位指名のリチャードソンは球宴に4度出場した実力派だったが、1986年に薬物規定違反でリーグから追放された。(C)Getty Images

■様々な要素が上手く重なった結果、バードのボストン入りが可能に

 1976年までは、指名された選手が大学に戻り1試合でも出場した時点で、契約交渉権は消滅するという規定があった。それゆえ、確実に獲得できる選手以外は指名に踏み切れなかった。ところが、同年に新たな労使協定が結ばれ、翌年のドラフト開始時までに権利を保持することが可能に。そしてもしその時間を過ぎれば、選手はその年のドラフトにスライドしてエントリーすることができる。それゆえ、大学に戻るとわかっていながら強行指名に打って出たチームは、丸1年間待たされた挙句、最後の最後に逃げられるという大きなリスクを背負うことになる。

 そういったリスクをすべて受け入れたうえで、バードの獲得に照準を合わせているチームがあった。東の雄、セルティックスである。8連覇という金字塔を打ち立てた1960年代を経て、74、76年に優勝を飾ったものの、この年は32勝50敗でプレーオフ進出を逃し、チームの若返りが急務となっていた。

 そこへ颯爽と姿を現わしたのが“カレッジバスケットボールの秘密兵器”、バードだった。スピードやジャンプ力といった運動能力は見劣りするものの、それを補って余りあるバスケットボールIQとセンス、才能を持ち、GMのレッド・アワーバックは成功の匂いを嗅ぎ取っていた。次代のフランチャイズプレーヤー候補として、セルティックスはバード獲得に全力を傾けた。
 
 セルティックスはNBA本部の顧問弁護士、デイビッド・スターンに電話をかけ、新たな労使協定についてあらためて確認した。指名権は翌年のドラフト開始時まで有効であることを再確認し、あとはドラフト本番でバードがセルティックスの指名順位まで残ってくれることを祈るだけだった。この年セルティックスが持っていた1巡目指名権は6位と8位。

 当時はABAから合流したチームやスモールマーケットのチームが財政難に陥るケースが珍しくなかった。バードの指名についても、財力や忍耐力を鑑みれば、1年間待って、そのうえドタキャンされるリスクを負ってまでトライするチームは他にない、そうアワーバックは踏んでいた。

 保険の意味も込めて、まず6位で確実に獲得できる他の選手を指名し、その後8位でバードを指名するというプランで固まりつつあった。だが、1位と7位の指名権を持っていたブレイザーズが、7位でバード獲得に動くという確度の高い情報をセルティックスは手に入れる。主力センターのビル・ウォルトンがケガで長期離脱を余儀なくされたブレイザーズは、その情報通り1位でセンターのマイカル・トンプソンを、7位でバードを指名するという算段だった。
 

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