Jリーグ・国内

日本で大成するためには――神戸加入のドウグラスが語った“助っ人の心得”【独占インタビュー後編】

多田哲平(サッカーダイジェスト編集部)

2020.04.15

2010年に来日し、今や日本の誰もが認める実力者となったドウグラス。写真:金子拓弥(THE DIGEST写真部)

■うまくいく時もあればそうでない時もある。それをわきまえていた。

――初めて日本でプレーしたのは、J2の徳島でしたね。

「そう、最初は2010年。3年間のレンタルで徳島に加入しました。あの頃は本当に大変だった……」

――と言うと?

「全然日本のサッカーに馴染めなかったんです。10年夏からの6か月で4点、11年は22試合で4点。そして28試合に出場した12年も結局4点どまりで、15試合くらいはメンバーに入れなかった(編集部・注/リーグ戦では13試合ベンチ外だった)。最初の3シーズンはレギュラーを掴めませんでした。ようやく変わったのは13年。その年は多くの試合に絡めるようになって、年間で12得点。初めてフィットした実感を得られて、J1昇格に貢献できました」

――辛い3シーズンをどう過ごしていたのですか?

「とにかく忍耐が必要でした。なんとか現状を変えようと、周りの人にいろいろ話を訊いてアドバイスをもらいました。また日本には日本のサッカーが、さらに徳島には徳島のサッカーがあると理解して、まずはそれに合うようにやってみようと意識していた。毎日トライしては失敗、それを繰り返していましたね」
 
――ひと言で『忍耐』と言っても、そう簡単ではない。異国の地で何年も不遇の時期を過ごして、焦りもあったのでは?

「海外から来た選手は、認められるまで苦労するものです。ピッチの中でも上手く自分のプレーが出せなかったり、ピッチ外でチームに馴染めなかったり。そんな時にはふと『もういいや、ここでは出来ない。国に帰ろう』なんて想いが頭をよぎります。実際に諦めて母国に帰ってしまう選手も少なくありませんし、僕も何度もそういう想いに駆られました。それでも、僕はそういう自分に負けたくなかった」

――気持ちをどうコントロールしていたのですか?

「まずは神様のおかげです。僕は信仰心が強いので。それから、周りに助けてくれる人がいたのも大きかった。本当に恵まれていました。娘と奥さんがいつもそばで支えてくれました。彼女たちの顔を見るとどんなに辛いことがあってもグッと堪えられるんですよ。そしてもうひとつ……うまくいく時もあれば、そうでない時もあると、わきまえていた。これはとても重要でした」