イタリア・サッカー界のレジェンドで、同国代表チームでの歴代最多得点記録保持者であるルイジ・リーバが、1月22日に亡くなった。
20日に急性冠症候群でカリアリのサン・ミケーレ病院に入院した際には、容体は安定していたものの、心臓の冠動脈の狭窄を治すための手術を遅らせた結果、翌日に突然悪化し、最終的に心臓発作を起こして79歳の生涯を終えることとなった。後日、葬儀が執り行なわれたボナリオ聖母大聖堂には3万人ものファンが集まり、偉大なスーパースターに別れを告げている。
「ジジ」の愛称で知られたストライカーは、1944年11月7日にイタリア北部ロンバルディア州のレッジューノ出身だが、62年から1シーズンのみ地元のレニャーノでプレーした後は、サルデーニャ島のカリアリで選手としてのキャリアを全う(通算315試合出場164得点)。1969-70シーズンにはスクデットをもたらし、自身は3度のリーグ得点王に輝いた。途中、名門ユベントスからの誘いを受けながらもこれを固辞して残留したことで、カリアリの人々からは英雄として生涯愛され、崇められる存在となった。
強靱なフィジカルと優れたテクニック、曲芸的なゴールを可能にした軽い身のこなし、そして鋭い得点嗅覚はイタリア代表でも存分に活かされ、65年から74年までに42試合でプレーして35ゴール、前述の通り歴代最多得点記録を樹立し、今なお破られていない。68年にEUROで代表初タイトルを獲得し、その2年後のメキシコ・ワールドカップでは準優勝に大貢献。クラブ、代表での活躍により、70年のバロンドールでは3位、その前年には2位の得票を記録している。
「アズーリ」ではW杯予選の歴代最多得点者(14点)でもあり、ハットトリック3回も最多というジジは、選手として栄光を築き、アメリカの大手経済誌『Forbes』は「カリアリのリーバは、ナポリにとってのディエゴ・マラドーナのようなものである」と表現し、イタリアの『Gazzetta dello Sport』は、「ロンボ・ディ・トゥオーノ(リーバのニックネームで「雷鳴の咆哮」の意)」のストライカーとしての価値は、現在であればキリアン・エムバペと同等であり、2億ドルは下らないと評したものである。
これだけでも見事な実績だが、彼の活躍は77年にユニホームを脱いだ後も続き、サルデーニャ島でサッカー学校を開設しながら、カリアリのフロントスタッフとして手腕を発揮し、86年には短期間ながら会長も務めた。そして、88年からはイタリア代表のマネージングスタッフに就任、ビッグイベントではいわゆる選手団団長として、常にサングラスをかけ、時に煙草を燻らせる姿を見ることができた。
20日に急性冠症候群でカリアリのサン・ミケーレ病院に入院した際には、容体は安定していたものの、心臓の冠動脈の狭窄を治すための手術を遅らせた結果、翌日に突然悪化し、最終的に心臓発作を起こして79歳の生涯を終えることとなった。後日、葬儀が執り行なわれたボナリオ聖母大聖堂には3万人ものファンが集まり、偉大なスーパースターに別れを告げている。
「ジジ」の愛称で知られたストライカーは、1944年11月7日にイタリア北部ロンバルディア州のレッジューノ出身だが、62年から1シーズンのみ地元のレニャーノでプレーした後は、サルデーニャ島のカリアリで選手としてのキャリアを全う(通算315試合出場164得点)。1969-70シーズンにはスクデットをもたらし、自身は3度のリーグ得点王に輝いた。途中、名門ユベントスからの誘いを受けながらもこれを固辞して残留したことで、カリアリの人々からは英雄として生涯愛され、崇められる存在となった。
強靱なフィジカルと優れたテクニック、曲芸的なゴールを可能にした軽い身のこなし、そして鋭い得点嗅覚はイタリア代表でも存分に活かされ、65年から74年までに42試合でプレーして35ゴール、前述の通り歴代最多得点記録を樹立し、今なお破られていない。68年にEUROで代表初タイトルを獲得し、その2年後のメキシコ・ワールドカップでは準優勝に大貢献。クラブ、代表での活躍により、70年のバロンドールでは3位、その前年には2位の得票を記録している。
「アズーリ」ではW杯予選の歴代最多得点者(14点)でもあり、ハットトリック3回も最多というジジは、選手として栄光を築き、アメリカの大手経済誌『Forbes』は「カリアリのリーバは、ナポリにとってのディエゴ・マラドーナのようなものである」と表現し、イタリアの『Gazzetta dello Sport』は、「ロンボ・ディ・トゥオーノ(リーバのニックネームで「雷鳴の咆哮」の意)」のストライカーとしての価値は、現在であればキリアン・エムバペと同等であり、2億ドルは下らないと評したものである。
これだけでも見事な実績だが、彼の活躍は77年にユニホームを脱いだ後も続き、サルデーニャ島でサッカー学校を開設しながら、カリアリのフロントスタッフとして手腕を発揮し、86年には短期間ながら会長も務めた。そして、88年からはイタリア代表のマネージングスタッフに就任、ビッグイベントではいわゆる選手団団長として、常にサングラスをかけ、時に煙草を燻らせる姿を見ることができた。
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