専門5誌オリジナル情報満載のスポーツ総合サイト

  • サッカーダイジェスト
  • WORLD SOCCER DIGEST
  • スマッシュ
  • DUNK SHOT
  • Slugger
Jリーグ・国内

自己破産から15年…サッカーシューズの名門はいかにして甦ったのか?喜びの声から生まれたビジョンとは――

手嶋真彦

2020.09.13

 最初の大きな関門を迎えたのは、18年1月だった。中学生の佐藤が感動したあの履き心地で、ヤスダのスパイクを甦らせるには、当時使っていた木型と金型を見つけられるかどうかが最大の鍵となる。木型でシューズ(アッパー)の形状が決まり、木型に合わせた金型でスタッドを含めた靴底(ソール)が作られる。そうした初歩から齋藤の手ほどきを受けつつ、齋藤の伝手を頼りに木型と金型が残っているか、ヤスダのかつての取引先に問い合わせていかなければならない。

 幸いにも、探し物は見つかった。ヤスダの倒産から15年が過ぎていたのに、取引先のひとつが木型と金型を倉庫に保管してくれていたのだ。

 次のハードルは、大量生産ではない限定品の製造を、見つけ出したその企業が引き受けてくれるか――。佐藤の想定では、復刻モデルは限定300足程度が望ましい。ところがその企業は、最低でも1000足から受注するという話なのだ。クラウドファンディングで1000足以上の需要を掘り起こすのは、おそらく難しい。少量生産という条件を呑んでもらうには、どう説得すればいいのだろうか……。

 頭を悩ませていた佐藤に不思議な出来事が起きたのは、最終プレゼンを2日後に控えた土曜日だった。何の気なしに自宅の物置を掃除していると、年季の入った袋が見つかった。中に入っていたのは佐藤が20年前に購入し、おそらく自宅の引っ越しを境に行方不明になっていたヤスダのスパイクだった。

 最終プレゼン当日の1月22日は、東京に大雪が降った。佐藤がまず見せたのは、念入りに作成していた紙の資料ではなく、しっかり手入れをした、2日前までは物置に眠っていた取り替え式のスパイクだった。スタッドを交換する取り替え式は使う機会が限られており、それもあって行方知れずになっていたのだろう。

「それ、君の?」

 先方の社長が興味を示してくれた。はい、と答えると、こんな呟きが聞こえてきた。
「そうか、思い入れのあるメーカーなんだね……」
 
 こうして限定300足の製造にはメドがついたが、次の関門は資金だった。75年生まれの佐藤は09年に33歳で独立すると、17年にはスポーツと健康に特化したクラウドファンディングの会社を立ち上げていた。ヤスダの復刻は“クラファン第1号案件”として、ひらめいたアイデアでもあったのだ。

 18年3月6日から4つのコースを用意して支援の募集を始めたが、期限の5月5日まで1週間を切っても、目標の750万円には達していなかった。未達に終われば、プロジェクトそのものが立ち消えになる。

 伸び悩んでいた金額が急に増えだしたのは、4月30日の朝だった。ヤスダ復刻プロジェクトが、日刊スポーツで大々的に取り上げられたのだ。その日のうちに目標額に到達すると、朗報を知った齋藤から電話があった。佐藤はそのときまで知らなかった。ヤスダが自己破産したのは、ちょうど16年前の02年4月30日だったということを。

 復刻版のスパイクは、黒300足、ゴールド20足の2色を用意した。最終的に297名に上った支援者は、40代と50代が中心で、現役のJリーガーも含まれていた。完成した復刻モデルは18年の秋、支援者たちの下に届けられた。
 

RECOMMENDオススメ情報

MAGAZINE雑誌最新号