海外テニス

テニス界に女王ウィリアムズ姉妹を送り出した熱血パパ『キング・リチャード』の超型破りな子育て術<SMASH>

内田暁

2022.03.14

リチャード・ウィリアムズ(写真中央)は二人の娘が生まれる前からテニス界の女王に育て上げるとこと決めていた。(C)Getty Images

 キング・リチャード――。

 これは、邦題『ドリーム・プラン』として2月末に封切られた映画の、オリジナルタイトルである。

 1990年台から2000年台に掛けて女子テニス界を席巻し、今なお現役プレーヤーとして存在感を放つビーナスとセリーナのウィリアムズ姉妹。リチャードは、その二人の革命児の父親であり、二人の女王のテニスコーチでもある。

 テニスと縁のなかったリチャードが、ある日、偶然テレビで目にした女子テニス大会の優勝賞金額を知り、「娘が生まれたらテニス選手に育てるぞ!」と妻に宣言したというのは、ある種の英雄譚的に語られる、有名なエピソードだ。

 その時から彼は、まだこの世に存在すらしない、我が子の"育成計画書"をしたため始めた。これが、邦題『ドリーム・プラン』の由来。原題の"キング=王様"には、二人の女王を育てたリチャードへの敬意と共に、自身の"計画"を妄信し、傲岸不遜にふるまう彼への揶揄も、多分に込められているだろう。

 1942年2月14日、リチャードは5人兄妹の長男として、ルイジアナ州に生まれた。自伝『ブラック・アンド・ホワイト』によれば、家は貧しく、常に肌の色に起因する差別を受けてきたという。
 
 最初の結婚は23歳のとき。5人の子どもをもうけるが、家族から逃げるように離婚して、38歳で再婚した。

 その再婚相手こそが、後にビーナスとセレナの母となるオラシーン・プライス。まだ幼い3人の娘を抱えた、未亡人の看護師だった。
 
 再婚した年にビーナスが、その翌年にセレナが生まれてほどなくし、リチャードは"プラン"を実行に移す。当時住んでいたロングビーチから、アメリカでも有数の治安の悪い町として知られるコンプトンへと移り住んだのが、その手始め。

 この転居は、リチャードが「タフな環境こそが、チャンピオンを育てるのだ」と主張し、オラシーンの反対を振り切って決めたとされている。だが、本当にそうだったのだろうか? 当時のコンプトンの治安は、今よりもさらに悪かったと聞く。現に、セレナとビーナスの父違いの長女は、コンプトンでボーイフレンドの車に乗っていたとき、ギャングの抗争に巻き込まれ銃弾で命を落としているのだから……。
 
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リチャードは娘たちをジュニア大会に出さなかった