海外テニス

女子テニス界屈指の技巧派ジャバーを世界2位へと押し上げた「本気で自分を信じる覚悟」【シリーズ/ターニングポイント】<SMASH>

内田暁

2023.01.14

チュニジアの片田舎から始まったオンス・ジャバ―のテニスは、様々な出会いを通じて順調に成長を遂げたが、ある時期がくると壁に突き当たった。(C)Getty Images

 人生には「運命の分かれ道」とも呼べるシーンが存在する。それはテニスプレーヤーも同じだ。世界のトッププロが今だからこそ語れるテニス人生の分岐点について、本人の証言をもとに紹介するテニス専門誌マッシュの「ターニングポイント」シリーズ。

 今回は、昨年のウインブルドンと全米オープンで準優勝し、2023年シーズンもさらなる活躍が期待されるオンス・ジャバー(チュニジア)のターニングポイントについて迫る。

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「アフリカ大陸出身選手初」、「チュニジア選手初」、そして「アラブ系女性初」。

 彼女が至った地点には、常に「初」のくさびが打ち込まれる。

 未踏の荒野を、勇気と決断、時に運や機縁にも助けられながら、ユーモア精神で切り開く一行――。オンス・ジャバーのキャリアを思うとき、ふと頭に浮かぶのは、待ち受ける困難をもどこか楽しみながら乗り切っていく、たくましくもユーモラスな開拓者の姿だ。

 テニス愛好家の母に連れられ、ジャバーがこの競技に出会ったのは3歳の時と早い。

 ボールと戯れるようにプレーする少女は、チュニジア国内の大会で、次々に結果を残していったという。ただ、国内の"天才少女"の称号は、世界のテニスシーンにおいては、さしたる意味を持ちはしない。

 ましてや、クサーヘラルという海沿いの小さな町に育った彼女には、国内大会を周ることすら「両親に大きな犠牲を強いている」と重責を覚える状況だった。後の世界2位にしてエンターテイナーのキャリアは、10代前半にして途絶えたとしても、決して不思議ではなかった。
 
 世界に続く糸の端緒を彼女がつかんだのは、12~13歳の時。

「初めて海外の大会に出たのが、12歳の時。場所はパリで、まあまあ悪くない成績だったのよね」

 言葉では謙遜しつつも、不敵な表情は自慢気だ。その結果が引き寄せたのだろう、彼女はチュニジアテニス協会から支援の声を掛けられる。ITF(国際テニス連盟)が1986年に創設した、"グランドスラム選手育成プログラム"の支援対象選手としてであった。

「ナショナルコーチから、チュニスに行くべきだと誘われた。そこは、勉強しながら練習もできるスポーツ専門学校のような場所。良い練習を重ね、良い選手になるための大きなステップだった」

 かくして、小さな町でコートを探しながらテニスをしていた少女は、まずは首都へと歩みを進めた。
 
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「グランドスラム選手基金」の援助で試合への全集中が可能に