世界への扉が、日本で開かれる——。
11月13から17日にかけて三重県四日市市で開催された「2024 DUNLOP ROAD TO THE AUSTRALIAN OPEN JUNIOR SERIES」(以下Road to AO)は、その名の通り、オーストラリアへと続く夢の架け橋。アジア・オセアニア地域の男女トップ選手が集結し、優勝者には来年1月にメルボルンで開催される、全豪オープンジュニアの本戦ワイルドカード(主催者推薦)が与えられる。
日本からの同大会参戦選手は、その前週に開催される国内大会の上位者。そして、8月に開催された全日本ジュニア選手権の16歳以下の男女優勝者や、大会主催者推薦選手などである。通常グランドスラムジュニアに出場するには、ITF(国際テニス連盟)主催のジュニア大会に出場し、ランキングを上げる必要がある。
ただそのためには、早期の海外遠征が必須。実際には、環境や経済面での高いハードルに阻まれて、才能や実力があってもチャンスが得られぬ若者も少なくない。そのような“国内組”にとってもこの「Road to AO」は、メルボルン直行便に飛び乗る切符の争奪戦だ。
「グランドスラムジュニアに出た経験は、本当にすごく大きい」
そう断言するのは、今年10月に現役生活にピリオドを打ったばかりの、土居美咲だ。
「特にグランドスラムジュニアは本戦の大会2週目から始まるので、周りはトップ選手ばかりだし、良い試合が見られる。気持ちも昂るし、『ここに戻ってきたい、プロになりたい』とちゃんと思ったのは、それがきっかけです」
そう15~16年前を振り返る土居は、とりわけ全豪オープンジュニアには、忘れがたい思い入れがあると言う。
それは2008年。この年に土居は、ダブルスで準優勝に輝いた。土居にとっては、前年のウインブルドンに続く2度目の決勝進出。ただその時と違うのは、ダブルスパートナーが奈良くるみ以外の選手だったことだ。
「それまではずっと、くるみとダブルスを組んでいたんですが、あの年はくるみがケガをして出られなかったので、海外の選手と組んだんです。それで準優勝できた時、なんかうれしかった記憶はあります。くるみはずっと先頭にいて、私は必死についていった。ダブルスも、私は『くるみと組みませてもらっている』という感じだったので、くるみ以外と組んで戦績を残せたのは、自分的にはすごく大きな意味のあった大会でした」
加えるならこの当時、まだ「人見知り」を自認していた土居は、片言の英語をあやつり必死にパートナーとコミュニケーションも取ったという。
「ダブルスではウェアの色を揃えなくてはいけないんですが、『何色を着る?』も英語で言えない。なのでパートナーの部屋をノックして、『えっと……ダブルス、カラー』だけ必死に言って」
今は笑って語る苦い思い出も、後の“世界30位の土居”の礎となっただろう。
11月13から17日にかけて三重県四日市市で開催された「2024 DUNLOP ROAD TO THE AUSTRALIAN OPEN JUNIOR SERIES」(以下Road to AO)は、その名の通り、オーストラリアへと続く夢の架け橋。アジア・オセアニア地域の男女トップ選手が集結し、優勝者には来年1月にメルボルンで開催される、全豪オープンジュニアの本戦ワイルドカード(主催者推薦)が与えられる。
日本からの同大会参戦選手は、その前週に開催される国内大会の上位者。そして、8月に開催された全日本ジュニア選手権の16歳以下の男女優勝者や、大会主催者推薦選手などである。通常グランドスラムジュニアに出場するには、ITF(国際テニス連盟)主催のジュニア大会に出場し、ランキングを上げる必要がある。
ただそのためには、早期の海外遠征が必須。実際には、環境や経済面での高いハードルに阻まれて、才能や実力があってもチャンスが得られぬ若者も少なくない。そのような“国内組”にとってもこの「Road to AO」は、メルボルン直行便に飛び乗る切符の争奪戦だ。
「グランドスラムジュニアに出た経験は、本当にすごく大きい」
そう断言するのは、今年10月に現役生活にピリオドを打ったばかりの、土居美咲だ。
「特にグランドスラムジュニアは本戦の大会2週目から始まるので、周りはトップ選手ばかりだし、良い試合が見られる。気持ちも昂るし、『ここに戻ってきたい、プロになりたい』とちゃんと思ったのは、それがきっかけです」
そう15~16年前を振り返る土居は、とりわけ全豪オープンジュニアには、忘れがたい思い入れがあると言う。
それは2008年。この年に土居は、ダブルスで準優勝に輝いた。土居にとっては、前年のウインブルドンに続く2度目の決勝進出。ただその時と違うのは、ダブルスパートナーが奈良くるみ以外の選手だったことだ。
「それまではずっと、くるみとダブルスを組んでいたんですが、あの年はくるみがケガをして出られなかったので、海外の選手と組んだんです。それで準優勝できた時、なんかうれしかった記憶はあります。くるみはずっと先頭にいて、私は必死についていった。ダブルスも、私は『くるみと組みませてもらっている』という感じだったので、くるみ以外と組んで戦績を残せたのは、自分的にはすごく大きな意味のあった大会でした」
加えるならこの当時、まだ「人見知り」を自認していた土居は、片言の英語をあやつり必死にパートナーとコミュニケーションも取ったという。
「ダブルスではウェアの色を揃えなくてはいけないんですが、『何色を着る?』も英語で言えない。なのでパートナーの部屋をノックして、『えっと……ダブルス、カラー』だけ必死に言って」
今は笑って語る苦い思い出も、後の“世界30位の土居”の礎となっただろう。