フレンチ・オープンでは準決勝でビランデルの巧者ぶりに惨敗し、ウインブルドンでは準々決勝でカレンのキャノン・サービスの前に沈んだ。USオープンでは決勝でレンドルの豪打に翻弄され、全豪オープンでは準々決勝でジボイノビッチのパワーに屈した。
しかも、負け方が悪すぎる。ジボイノビッチとのファイナル・セット、この新鋭によもや1ゲームも取れずに敗れ去るとは、いったい誰が子想できただろうか? マッケンローほどのプレーヤーなら、たとえ負けるにしても、それにふさわいものであってほしい、と多くの人は願う。
そう、1982年のウインブルドン決勝でコナーズに負けたときや、1984年のフレンチ・オープン決勝でレンドルに負けたときのように―――。勝つか、負けるか、さんざんドキドキさせておきながら、最後は力尽きてペシミスティックに敗れ去る。それがマッケンローのセンチメンタリズムではなかったのか。
ところが、この1年は、サテライト・サーキットの、無名戦士のような慘敗続きだ。最後の大一番で踏ん張れないほど、疲れ切ってしまっている。わずか1年でこんなにも変わってしまうものか。この1年で、マッケンローの身辺にあった変化といえば、テータムと共同生活を始めたこと――。
これしかない。
そのため、不振の直後から、「テータムとのことが原因」といった風評がまことしやかに立つようになった。
「それにしても、人間、落ち目にはなりたくないものだ」
マッケンローは、しみじみとそう思う。力が落ちてくると、いろいろ原因を取り沙汰され、言われなくてもいいことまで、平気で言われるようになる。テータムを中傷する記事にしてもそうだ。
「他に書くことはないのか!」世界でナンバーワンを誇った頃は、何を書かれても、もう少し強くいられた。いきなりシャッターを切る無礼なカメラマンをはり倒すこともできたし、別荘にまで追いかけてきたしつこい記者に砂を浴びせかけることもできた。そんな暴挙でも一応は絵になった。しかし、力が落ちると、何をやっても滑稽にしか見えなくなる。「狂犬の遠吠」とか何とかの大見出しが踊るのがオチだ。こんなことってあるか。
マッケンローの苛立ちは尽きない。
本当にマッケンローは、憶測されているとおり、女性によって大きく左右される男なのだろうか。
しかも、負け方が悪すぎる。ジボイノビッチとのファイナル・セット、この新鋭によもや1ゲームも取れずに敗れ去るとは、いったい誰が子想できただろうか? マッケンローほどのプレーヤーなら、たとえ負けるにしても、それにふさわいものであってほしい、と多くの人は願う。
そう、1982年のウインブルドン決勝でコナーズに負けたときや、1984年のフレンチ・オープン決勝でレンドルに負けたときのように―――。勝つか、負けるか、さんざんドキドキさせておきながら、最後は力尽きてペシミスティックに敗れ去る。それがマッケンローのセンチメンタリズムではなかったのか。
ところが、この1年は、サテライト・サーキットの、無名戦士のような慘敗続きだ。最後の大一番で踏ん張れないほど、疲れ切ってしまっている。わずか1年でこんなにも変わってしまうものか。この1年で、マッケンローの身辺にあった変化といえば、テータムと共同生活を始めたこと――。
これしかない。
そのため、不振の直後から、「テータムとのことが原因」といった風評がまことしやかに立つようになった。
「それにしても、人間、落ち目にはなりたくないものだ」
マッケンローは、しみじみとそう思う。力が落ちてくると、いろいろ原因を取り沙汰され、言われなくてもいいことまで、平気で言われるようになる。テータムを中傷する記事にしてもそうだ。
「他に書くことはないのか!」世界でナンバーワンを誇った頃は、何を書かれても、もう少し強くいられた。いきなりシャッターを切る無礼なカメラマンをはり倒すこともできたし、別荘にまで追いかけてきたしつこい記者に砂を浴びせかけることもできた。そんな暴挙でも一応は絵になった。しかし、力が落ちると、何をやっても滑稽にしか見えなくなる。「狂犬の遠吠」とか何とかの大見出しが踊るのがオチだ。こんなことってあるか。
マッケンローの苛立ちは尽きない。
本当にマッケンローは、憶測されているとおり、女性によって大きく左右される男なのだろうか。