ハンキー氏の指導を受けるようになり、森上には技術面で、変えたものと変えなかったものがあるという。変えたのは、サーブ。
「当時の私は、いわゆる“パンケーキサーブ”で、身体が正面に向いた状態で打っていたんです。ジョンからはそれを直そうと言われたんですが、本当に大変で。でも試合でサーブを入れに行こうとすると、すごく怒られたんです。ほとんど怒ることはないコーチでしたが、そこは怒られた。『全部ダブルフォールトでもいいから、ちゃんと取り組んでいることをやれ』と」
変化のプロセスではどうしても、思うようにプレーできず勝てない日も続く。それはフラストレーションが溜まることだが、それ以上に「ジョンに理詰めで怒られる方が怖かった」と森上は回想した。
他方で変えなかったのは、両手で打つフォアハンド。
「中1の時に、片手にするかどうかすごく迷ったんです。でもジョンが『もっとトレーニングしてフットワークを鍛えたら良い。フォアが武器なのだから、その武器を捨てる必要ないでしょう』と言ってくれたんです。アメリカ人らしい、良いところを伸ばせば良いという発想でした」
コーチにとっての、変えるものと、変えなかったものの判断基準――それはあくまで、「今ではなく将来のため」という大局的視座。
「君は、プロになりたいんだよね? だったら今の戦績は関係ない、将来プロで勝てるテニスをちゃんと作ろう。今は負けても良い。やってきたことを出せる試合をしよう」
それが、森上がコーチから掛けられた言葉だった。
テニスの道を極めることに、迷いを抱かなかった中学生時代。そんな彼女の進路に大きな分岐点が訪れたのは、中学生最後の冬のことだ。
1995年1月――。関西圏を襲った“阪神・淡路大震災”に見舞われた町の景色は、森上の人生観にも影響を及ぼす。
「私が通っていたテニスクラブそのものに被害はなかったんですが、周囲は茫々と燃えていて。『私、テニスを続けて良いの? テニスをしている場合?』という葛藤もあって、結構悩んだんです。
コーチのジョンが住んでいた神戸の家も被害に遭ったので、当時、彼は私の家に住んでいました。彼自身も身の振り方を考えていた折りに、アメリカのアカデミーからヘッドハンティングで声が掛かったんですね。その時に『私もアメリカに行きたい! やっぱりテニスが続けたい。ジョンに教わりたい!』と思ったんです」
「当時の私は、いわゆる“パンケーキサーブ”で、身体が正面に向いた状態で打っていたんです。ジョンからはそれを直そうと言われたんですが、本当に大変で。でも試合でサーブを入れに行こうとすると、すごく怒られたんです。ほとんど怒ることはないコーチでしたが、そこは怒られた。『全部ダブルフォールトでもいいから、ちゃんと取り組んでいることをやれ』と」
変化のプロセスではどうしても、思うようにプレーできず勝てない日も続く。それはフラストレーションが溜まることだが、それ以上に「ジョンに理詰めで怒られる方が怖かった」と森上は回想した。
他方で変えなかったのは、両手で打つフォアハンド。
「中1の時に、片手にするかどうかすごく迷ったんです。でもジョンが『もっとトレーニングしてフットワークを鍛えたら良い。フォアが武器なのだから、その武器を捨てる必要ないでしょう』と言ってくれたんです。アメリカ人らしい、良いところを伸ばせば良いという発想でした」
コーチにとっての、変えるものと、変えなかったものの判断基準――それはあくまで、「今ではなく将来のため」という大局的視座。
「君は、プロになりたいんだよね? だったら今の戦績は関係ない、将来プロで勝てるテニスをちゃんと作ろう。今は負けても良い。やってきたことを出せる試合をしよう」
それが、森上がコーチから掛けられた言葉だった。
テニスの道を極めることに、迷いを抱かなかった中学生時代。そんな彼女の進路に大きな分岐点が訪れたのは、中学生最後の冬のことだ。
1995年1月――。関西圏を襲った“阪神・淡路大震災”に見舞われた町の景色は、森上の人生観にも影響を及ぼす。
「私が通っていたテニスクラブそのものに被害はなかったんですが、周囲は茫々と燃えていて。『私、テニスを続けて良いの? テニスをしている場合?』という葛藤もあって、結構悩んだんです。
コーチのジョンが住んでいた神戸の家も被害に遭ったので、当時、彼は私の家に住んでいました。彼自身も身の振り方を考えていた折りに、アメリカのアカデミーからヘッドハンティングで声が掛かったんですね。その時に『私もアメリカに行きたい! やっぱりテニスが続けたい。ジョンに教わりたい!』と思ったんです」