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国内テニス

「森上亜希子/扉が開いた瞬間」大局的視座を持った指導者たちの英断が世界41位へと導いた<SMASH>

内田暁

2022.11.26

2006年のフェドカップ(現BJK杯)で日本代表として戦った中村藍子、森上、杉山愛、浅越しのぶ(左から)。今は全員が引退し、「JWT50」の一員として後進のサポートに力を注ぐ。(C)Getty Images

2006年のフェドカップ(現BJK杯)で日本代表として戦った中村藍子、森上、杉山愛、浅越しのぶ(左から)。今は全員が引退し、「JWT50」の一員として後進のサポートに力を注ぐ。(C)Getty Images

 かくして森上は、ハイスクールも併設されたフロリダ州のアカデミーに留学する。娘が可愛い父は、大反対した。ただ母は、「やりたいことあるなら進んだらいいじゃない」と援護射撃をしてくれたという。父は最後まで、納得したとは言い難かったようだ。

 それでも「セキュリティのしっかりした場所だしホストファミリーもとても素敵な方々」という母の報告を聞いて、安心はしたのだろう。1995年9月、森上は家族の下を離れてアメリカに渡った。

 森上が拠点とした米国のアカデミーには当時、セバスチャン・グロージャンら有望な若手のみならず、若きコーチたちも野心をたぎらせていた。「日本での私はジュニアで結果を残していましたが、アメリカには私くらいの選手はゴロゴロいた」

 そんな環境で力をつけた森上は、グランドスラムジュニアの常連にもなる。16歳の時に出場したウインブルドンJr.では、センターコートで行なわれた女子準決勝も観戦した。

 コートに立つのは、時の絶対女王、ステフィ・グラフ。その女王に挑んだのは、切れ味鋭いライジングショットを武器とした、“ライジングサン”こと伊達公子である。

「当時、伊達さんとの面識はなかったですが、とにかく『すごい!』と思いました。私も、こんな場所で試合がしたいという思いが生まれたのは間違いないです」
 
 この時に心に刻まれた衝撃と渇望は、1年後に森上を、ウインブルドンJr.ベスト4へと導いていく。さらにはこの結果により、ミキハウスがスポンサーに付き、18歳でプロ転向を果たした。

「正直、当時は大学進学を考えていたんです。でも、勉強はいつでもできるけれどプロに挑戦するのは今しかないかと思って、決意しました。ウインブルドンJr.のベスト4があったから、ミキハウスさんのお話もあったのだと思います」

 このプロ転向の8年後に、森上は世界の41位に到達する。終盤はヒザのケガに苦しめられ、それでも限界まで走り切った、約13年間のプロキャリアだった。
 
 一つの出会いが新たな出会いを生み、縁に導かれるように世界中を駆けた日々。その転換期には常に、真っすぐ目的地を指す意志を指標とした、森上自身の決断があった。

取材・文●内田暁

【PHOTO】伊達公子がグランドスラムを目指すジュニアたちを指導するキャンプの様子
 

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