専門5誌オリジナル情報満載のスポーツ総合サイト

  • サッカーダイジェスト
  • WORLD SOCCER DIGEST
  • スマッシュ
  • DUNK SHOT
  • Slugger
海外テニス

【レジェンドの素顔10】“教育ママ”の厳しく熱い指導に幼少期のコナーズは従うが1つの信念は曲げなかった│前編<SMASH>

立原修造

2021.12.27

少年の頃から両手打ちバックハンドの信念を曲げなかったコナーズは専門のコーチを付けることとなった。写真:THE DIGEST写真部

少年の頃から両手打ちバックハンドの信念を曲げなかったコナーズは専門のコーチを付けることとなった。写真:THE DIGEST写真部

 ジミーも、この一点だけは、自分の信念を曲げなかった。グロリアは「片手打ちにすべきよ」とウンザリするほどしつこく言ってきたが、ジミーは従おうとしなかった。最後にはグロリアも根負けし、コナーズの希望を認めた。

 1960年代に、大成した選手がいないという理由で白眼視された両手打ちバックハンドも、1970年代には、ジミー、エバート、ボルグと3人もの名選手を生んだ。1980年代ではむしろ、大成するからという理由でコーチが両手打ちを勧めるほどだ。テニスの打法は大きく変貌してきたのだ。

 ところで、コナーズの両手打ちを容認したグロリアは、どうせやるなら両手打ちを徹底的に極めさせてあげたいと考えた。―――専門のコーチにつけよう。そう考えたグロリアは、コナーズを連れてカリフォルニアに行くことにした。両手打ちの先駆者でもあるパンチョ・セグラのコーチを受けさせるためである。
 
 グロリアの大胆な点は、夫ともう一人の息子を置いて、ジミーと共に旅立ってしまうことだ。家庭崩壊につながるかもしれなかった。それでも、グロリアは自分の息子に賭けてみたかった。親のひいき眼かもしれないが、ジミーのオ能は千金に値すると思い始めたのである。

 もっとも、セグラは両手打ちの先駆者といっても、バックハンドは片手打ちだった。両手打ちだったのはフォアハンドの方だ。つまり、ジミーとはまるで逆なのである。

 グロリアにすれば、他に適任がいないと考えたのだろう。フォアとバックの違いこそあれ、両手打ちに変わりはない。当時の情勢(両手打ちのコーチが少なかった)を考えれば、背に腹はかえられないと思ったのだろう。

~~続く~~

文●立原修造
※スマッシュ1987年5月号から抜粋・再編集

【PHOTO】ボルグ、コナーズ、エドバーグetc…伝説の王者たちの希少な分解写真/Vol.1
 
NEXT
PAGE

RECOMMENDオススメ情報

MAGAZINE雑誌最新号