明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。2022年カタールワールドカップ・ドイツ戦で決勝ゴールを叩き出し、ベスト16入りの原動力となった浅野拓磨さん(マジョルカ=スペイン)が登場。サッカーを始めたきっかけやこれまでのキャリアの転機、カタールW杯までの道のり、今後の目標、そしてアスリートの食生活まで幅広く語ってくれた。
――浅野選手は幼少期から30年近くサッカーをされてきたと思いますが、これまでのキャリアにおける人生の転機をいくつか挙げてもらってもいいですか?
1つ目は中学校から高校に上がる時でした。それが非常に大きなターニングポイントだったと思います。僕は地元・菰野町の八風中学校でサッカーをしていたんですけど、もともと強豪校の四日市中央工業高校に行くという選択肢は全くなかった。僕の家は大家族でお金のことで両親に負担がかける道は進めない。それでもサッカー選手になるという夢は持っていたんで、どういう道のりでプロになるべきかという悩みを抱えていました。
そんな時に、八風中の担任の先生に進路希望を提出したら「本当にそれでいいのか」と聞かれました。実はサッカー部の内田先生が両親に電話して、「何とか拓磨を四中工に行かせてほしい」と頼んでくれていたみたいです。それを知って悩んでいたとき、内田先生が「高校3年間は両親、家族全員に苦労をかけるかも分からんけど、3年後に自分で返していけば、ええやないか」と言ってくれた。そう聞いた瞬間、確かにそうだと腑に落ちたんです。
中学3年生はまだ子供ですから、基本的には目の前のことしか見ることができない。でも、先生から3年後、5年後という先のビジョンで物事を見据えることの大切さを教えてもらえた。それは大きな意味がありました。3年間苦しくても、4年目に花が咲けばいいといった考え方はプロになってからも通じますよね。自分も3年後にどうなっているか分からないという怖さはありましたけど、そこで決断できたことが本当に大きかった。あの時の自分を褒めてあげたいと思いますね(笑)。
――四中工に行かなければ、高校サッカー選手権での大活躍も、プロ入りの道を切り開くこともできなかったかもしれませんね。では、高校2年の時の選手権準優勝・得点王獲得が2つ目のポイントですか?
いや、そこではないんです。2つ目は四中工からプロに行くタイミング。複数のチームからオファーを頂いて、どこに行くかを決めなければいけなかった。高校進学と似た状況でしたが、僕の場合は中学生の時に進路についてあれだけ考えた経験があったおかげで、周りの仲間よりも質の高い判断できたのかなと思います。目先のことだけではなく、その後の自分がどうなっていくかというイメージを描きつつ、選択できましたから。
――それがサンフレッチェ広島だったと。
はい。それでもメチャクチャ悩みましたね。どのチームに行ったら自分が日本代表に近づけるのか、海外に挑戦ができるのか、ワールドカップ(以下、W杯)に行けるのかをいろいろ考えました。「この選択が今後の人生を変える」という重みを感じながら判断したと思います。
もしかしたら、どのチームをとっても日本代表になれたかもしれないし、W杯にも行けたかもしれない。でも同じ結果にたどり着いたとしてもそこまでの過程は同じではなかったと思います。全ての選択が紙一重の違いを生み出すので、やはり慎重にはなりますね。
――当時の広島には同い年の野津田岳人選手(パトゥム)がいて、佐藤寿人選手(現解説者)というエースも大活躍していました。そこに飛び込むのは勇気が必要だったと思います。
どこへ行ってもチャレンジすることになるのは間違いないので、そこはあまり気にしてなかったですね。逆に、どれだけチャレンジできる環境かを考えて結論を出しました。広島でチャレンジして無理だったら、W杯に出ることなんて夢のまた夢ですし、無理なら無理だと早めに知った方がいい。僕は安定を取ろうとか、何となく生き残りたいという安易な考え方は全くないので。やれるだけのことをやるという意識は若い頃から持っていたと思います。
――浅野選手は幼少期から30年近くサッカーをされてきたと思いますが、これまでのキャリアにおける人生の転機をいくつか挙げてもらってもいいですか?
1つ目は中学校から高校に上がる時でした。それが非常に大きなターニングポイントだったと思います。僕は地元・菰野町の八風中学校でサッカーをしていたんですけど、もともと強豪校の四日市中央工業高校に行くという選択肢は全くなかった。僕の家は大家族でお金のことで両親に負担がかける道は進めない。それでもサッカー選手になるという夢は持っていたんで、どういう道のりでプロになるべきかという悩みを抱えていました。
そんな時に、八風中の担任の先生に進路希望を提出したら「本当にそれでいいのか」と聞かれました。実はサッカー部の内田先生が両親に電話して、「何とか拓磨を四中工に行かせてほしい」と頼んでくれていたみたいです。それを知って悩んでいたとき、内田先生が「高校3年間は両親、家族全員に苦労をかけるかも分からんけど、3年後に自分で返していけば、ええやないか」と言ってくれた。そう聞いた瞬間、確かにそうだと腑に落ちたんです。
中学3年生はまだ子供ですから、基本的には目の前のことしか見ることができない。でも、先生から3年後、5年後という先のビジョンで物事を見据えることの大切さを教えてもらえた。それは大きな意味がありました。3年間苦しくても、4年目に花が咲けばいいといった考え方はプロになってからも通じますよね。自分も3年後にどうなっているか分からないという怖さはありましたけど、そこで決断できたことが本当に大きかった。あの時の自分を褒めてあげたいと思いますね(笑)。
――四中工に行かなければ、高校サッカー選手権での大活躍も、プロ入りの道を切り開くこともできなかったかもしれませんね。では、高校2年の時の選手権準優勝・得点王獲得が2つ目のポイントですか?
いや、そこではないんです。2つ目は四中工からプロに行くタイミング。複数のチームからオファーを頂いて、どこに行くかを決めなければいけなかった。高校進学と似た状況でしたが、僕の場合は中学生の時に進路についてあれだけ考えた経験があったおかげで、周りの仲間よりも質の高い判断できたのかなと思います。目先のことだけではなく、その後の自分がどうなっていくかというイメージを描きつつ、選択できましたから。
――それがサンフレッチェ広島だったと。
はい。それでもメチャクチャ悩みましたね。どのチームに行ったら自分が日本代表に近づけるのか、海外に挑戦ができるのか、ワールドカップ(以下、W杯)に行けるのかをいろいろ考えました。「この選択が今後の人生を変える」という重みを感じながら判断したと思います。
もしかしたら、どのチームをとっても日本代表になれたかもしれないし、W杯にも行けたかもしれない。でも同じ結果にたどり着いたとしてもそこまでの過程は同じではなかったと思います。全ての選択が紙一重の違いを生み出すので、やはり慎重にはなりますね。
――当時の広島には同い年の野津田岳人選手(パトゥム)がいて、佐藤寿人選手(現解説者)というエースも大活躍していました。そこに飛び込むのは勇気が必要だったと思います。
どこへ行ってもチャレンジすることになるのは間違いないので、そこはあまり気にしてなかったですね。逆に、どれだけチャレンジできる環境かを考えて結論を出しました。広島でチャレンジして無理だったら、W杯に出ることなんて夢のまた夢ですし、無理なら無理だと早めに知った方がいい。僕は安定を取ろうとか、何となく生き残りたいという安易な考え方は全くないので。やれるだけのことをやるという意識は若い頃から持っていたと思います。




