明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。今回は2016年リオデジャネイロ五輪でバドミントン女子ダブルス金メダル獲得という偉業を達成した「タカマツペア」の髙橋礼華さんが登場。競技を始めたきっかけやこれまでのキャリアの転機、リオ五輪までの道のり、引退の決断、今後の目標、そしてアスリートの食生活まで幅広く語ってくれた。
――髙橋さんがバドミントンを始めたきっかけを最初に教えていただけますか?
母がママさんバドミントンをやっていたので、ついていくうちに自然とラケットを握るようになりました。幼稚園の頃だったと思います。本格的にクラブに入ったのは小学1年生のときで母がコーチをしていたクラブで妹と一緒に指導を受けるようになりました。
――本格的にのめり込んだ理由は?
ほかにもピアノ、公文、水泳を習っていましたが、4年生のときに全国小学生大会で優勝したのをきっかけにバドミントンと公文だけにしました。バドミントンは勝ち負けが明確で負けたら悔しいかったけど、そこが面白かった。性格的にも勝敗がつく方が自分に合っていましたし、モチベーションになっていたと思います。
――バドミントンの競技性に魅力も感じられたのですね。
そうですね。でもラケットを握り始めたころはシャトルに全然当たらなくて(笑)。シャトルが当たるようになった瞬間の感動は今も忘れません。ラケットを振るだけのシンプルな競技という印象かもしれませんが、体力的にもハードで、俊敏性や走力がないと戦えない。レベルが上がるにつれて、全身を使わないと勝てないと痛感しました。色々な練習方法にも取り組みましたし、どんどん新しいチャレンジができることが楽しかったですね。
――トップレベルを目指し、12歳で故郷・橿原市を離れ、仙台市にある聖ウルスラ学院英智中学に単身で入学しされました。
振り返ってみると小学校時代の自分が選手としては一番強かった。キャリアの中で最強と言える時代でした。右肩上がりに成長していた時期だったので、奈良にとどまっていても、これ以上は強くなれないだろうなと考えていました。
たくさんの学校から声をかけていただいた中で、中高一貫の環境なら常に強い先輩と一緒に練習できると考えて、仙台へ行くことを決めました。父や母が進学先を決めたのではなく、自分自身の決断でした。知り合いもいない未知の環境でしたが、とにかく強くなりたいという一心でしたね。
――仙台に送り出す際、お父さんから「お前に帰るところはない」という強い言葉をかけたそうですね。
はい。でも突き放す意味ではなくて私のことを奮い立たせようとしてくれたのだと思います。「いつでも帰っておいで」と言われたら甘えが出てしまいますよね。「簡単にあきらめないように」と伝えるために父はそういう言葉を口にしたのかなと思っています。
実際に仙台に行ってみると、新たな環境の中で学校生活や部活動に取り組むことには難しさもありました。練習もきつかったし、上下関係もあった。そういう時にしっかり耐えるための覚悟を持たせてくれたのかなと感じました。
――中学1年生の時にヘルニアになって、お母さんに「やめたい」とこぼしたこともあったそうですね。
そうですね、1年生の最初の頃でした。周りの仲間は親御さんが車で病院に連れて行ってくれますけど、私は知らない土地でたった1人。電車やバスに乗り継いで30~40分移動して注射を受けるという状況で本当に心細かったです。母はいつものように「頑張って」と背中を押してくれました。
――寂しさに耐えて頑張れたのは、当時から選手として高い目標があったからですか?
五輪に出たいという目標があったわけではなくて、とにかく競技に復帰したい、早くいつも通りの練習をしたいというバドミントンへの気持ちだけで、先のことは考えていなかったです。徐々にヘルニアも良くなって、練習に復帰できるようになると競技に集中できるようになりました。
――髙橋さんがバドミントンを始めたきっかけを最初に教えていただけますか?
母がママさんバドミントンをやっていたので、ついていくうちに自然とラケットを握るようになりました。幼稚園の頃だったと思います。本格的にクラブに入ったのは小学1年生のときで母がコーチをしていたクラブで妹と一緒に指導を受けるようになりました。
――本格的にのめり込んだ理由は?
ほかにもピアノ、公文、水泳を習っていましたが、4年生のときに全国小学生大会で優勝したのをきっかけにバドミントンと公文だけにしました。バドミントンは勝ち負けが明確で負けたら悔しいかったけど、そこが面白かった。性格的にも勝敗がつく方が自分に合っていましたし、モチベーションになっていたと思います。
――バドミントンの競技性に魅力も感じられたのですね。
そうですね。でもラケットを握り始めたころはシャトルに全然当たらなくて(笑)。シャトルが当たるようになった瞬間の感動は今も忘れません。ラケットを振るだけのシンプルな競技という印象かもしれませんが、体力的にもハードで、俊敏性や走力がないと戦えない。レベルが上がるにつれて、全身を使わないと勝てないと痛感しました。色々な練習方法にも取り組みましたし、どんどん新しいチャレンジができることが楽しかったですね。
――トップレベルを目指し、12歳で故郷・橿原市を離れ、仙台市にある聖ウルスラ学院英智中学に単身で入学しされました。
振り返ってみると小学校時代の自分が選手としては一番強かった。キャリアの中で最強と言える時代でした。右肩上がりに成長していた時期だったので、奈良にとどまっていても、これ以上は強くなれないだろうなと考えていました。
たくさんの学校から声をかけていただいた中で、中高一貫の環境なら常に強い先輩と一緒に練習できると考えて、仙台へ行くことを決めました。父や母が進学先を決めたのではなく、自分自身の決断でした。知り合いもいない未知の環境でしたが、とにかく強くなりたいという一心でしたね。
――仙台に送り出す際、お父さんから「お前に帰るところはない」という強い言葉をかけたそうですね。
はい。でも突き放す意味ではなくて私のことを奮い立たせようとしてくれたのだと思います。「いつでも帰っておいで」と言われたら甘えが出てしまいますよね。「簡単にあきらめないように」と伝えるために父はそういう言葉を口にしたのかなと思っています。
実際に仙台に行ってみると、新たな環境の中で学校生活や部活動に取り組むことには難しさもありました。練習もきつかったし、上下関係もあった。そういう時にしっかり耐えるための覚悟を持たせてくれたのかなと感じました。
――中学1年生の時にヘルニアになって、お母さんに「やめたい」とこぼしたこともあったそうですね。
そうですね、1年生の最初の頃でした。周りの仲間は親御さんが車で病院に連れて行ってくれますけど、私は知らない土地でたった1人。電車やバスに乗り継いで30~40分移動して注射を受けるという状況で本当に心細かったです。母はいつものように「頑張って」と背中を押してくれました。
――寂しさに耐えて頑張れたのは、当時から選手として高い目標があったからですか?
五輪に出たいという目標があったわけではなくて、とにかく競技に復帰したい、早くいつも通りの練習をしたいというバドミントンへの気持ちだけで、先のことは考えていなかったです。徐々にヘルニアも良くなって、練習に復帰できるようになると競技に集中できるようになりました。




