アスリートへのインタビューを通し、明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。今回登場するのは、スピードスケートで3度オリンピックに出場、複数のメダルを獲得するなど第一線で活躍する佐藤綾乃さん。日本を代表する選手になるまでの経緯、その土台となる食への意識、今後への思いなどを聞いた。(編集部注:2025年12月に取材)
――スケートを始めたきっかけを教えてください。
私自身は覚えていないのですが、3歳上の兄が小学6年生までスケートをやっていて、両親と一緒に送り迎えにしているときに遊びでスケートしたら「楽しい。始めたい」と言ったのがきっかけでした。
――どのような環境でやっていたのですか?
地元の北海道の厚岸町には私の親も含めてスケートをやっている子どもの親たちが水を撒いて作る自然のアイスリンクがあって、小学4年生くらいまではそこで滑っていました。その後は車で1時間くらいかけて釧路市に通っていました。高校も釧路市の学校で、電車で1時間ぐらいです。
放課後、スケートの練習が始まるまで2時間ぐらい待ち時間があったのですが、お母さんかお父さんが迎えに来て、練習が終わるまでずっと待っていてくれるという生活が3年間続きました。両親がそこまで私のために時間を費やしてくれなかったらここまで成長することができていなかったと思うので、本当に両親に対して感謝しかないですね。
――スケートへの気持ちはいかがでしたか。
中学生のときは、夏の時期はあまりスケートに特化した練習はしていなくて、陸上部と一緒にとにかく走り込みをしていましたね。だから中学校3年生の全国大会で優勝できたのは正直びっくりしたというか、純粋にスケートが楽しいなって思っていた時期だったかなって思います。高校の時はシーズンを通してスケートに向き合う時間が長くなって、1年生の時に初めて世界ジュニアに選ばれたのをきっかけに世界を意識するようになりましたね。
――高校を卒業後、高崎健康福祉大学に入学しました。
高校で世界大会を経験できたのは良かったものの、自分の中でオリンピックに出たいという気持ちがそこまで強くなっていなくて、むしろスケートをやめたいという気持ちでした。子どもが好きなのでスケートをやりながら保育士の資格を取りたいと考えて、それができるのが高崎健康福祉大学でした。
――どのような学生時代だったのでしょうか。
大学時代に大きな転機がありました。2016年、大学2年生のとき前のナショナルチームのコーチだったヨハン・デビットコーチから、ナショナルチームに入らないかと誘っていただいたんです。そこから大きく私の人生が変わりました。ナショナルチームは拠点が北海道の帯広市で、夏は秋からは長野市で活動する生活になります。大学に通えなくなってしまうので葛藤はありました。でも周りの方たちから「そんな機会ないんじゃない」と勧められてナショナルチームに参加しました。
大学生活をもっともっと楽しみたかったというのも正直な気持ちでしたが、遠隔で課題を出してくれたりしてスケートをやりながら単位を取れるような対応をしてくださった先生方に本当に感謝していて、大学入学時から気持ちがぶれることなく資格も取る、でもスケートも頑張るっていうまっすぐな自分を作ってくれたのは大学時代の生活があったからこそだと思っています。
――スケートを始めたきっかけを教えてください。
私自身は覚えていないのですが、3歳上の兄が小学6年生までスケートをやっていて、両親と一緒に送り迎えにしているときに遊びでスケートしたら「楽しい。始めたい」と言ったのがきっかけでした。
――どのような環境でやっていたのですか?
地元の北海道の厚岸町には私の親も含めてスケートをやっている子どもの親たちが水を撒いて作る自然のアイスリンクがあって、小学4年生くらいまではそこで滑っていました。その後は車で1時間くらいかけて釧路市に通っていました。高校も釧路市の学校で、電車で1時間ぐらいです。
放課後、スケートの練習が始まるまで2時間ぐらい待ち時間があったのですが、お母さんかお父さんが迎えに来て、練習が終わるまでずっと待っていてくれるという生活が3年間続きました。両親がそこまで私のために時間を費やしてくれなかったらここまで成長することができていなかったと思うので、本当に両親に対して感謝しかないですね。
――スケートへの気持ちはいかがでしたか。
中学生のときは、夏の時期はあまりスケートに特化した練習はしていなくて、陸上部と一緒にとにかく走り込みをしていましたね。だから中学校3年生の全国大会で優勝できたのは正直びっくりしたというか、純粋にスケートが楽しいなって思っていた時期だったかなって思います。高校の時はシーズンを通してスケートに向き合う時間が長くなって、1年生の時に初めて世界ジュニアに選ばれたのをきっかけに世界を意識するようになりましたね。
――高校を卒業後、高崎健康福祉大学に入学しました。
高校で世界大会を経験できたのは良かったものの、自分の中でオリンピックに出たいという気持ちがそこまで強くなっていなくて、むしろスケートをやめたいという気持ちでした。子どもが好きなのでスケートをやりながら保育士の資格を取りたいと考えて、それができるのが高崎健康福祉大学でした。
――どのような学生時代だったのでしょうか。
大学時代に大きな転機がありました。2016年、大学2年生のとき前のナショナルチームのコーチだったヨハン・デビットコーチから、ナショナルチームに入らないかと誘っていただいたんです。そこから大きく私の人生が変わりました。ナショナルチームは拠点が北海道の帯広市で、夏は秋からは長野市で活動する生活になります。大学に通えなくなってしまうので葛藤はありました。でも周りの方たちから「そんな機会ないんじゃない」と勧められてナショナルチームに参加しました。
大学生活をもっともっと楽しみたかったというのも正直な気持ちでしたが、遠隔で課題を出してくれたりしてスケートをやりながら単位を取れるような対応をしてくださった先生方に本当に感謝していて、大学入学時から気持ちがぶれることなく資格も取る、でもスケートも頑張るっていうまっすぐな自分を作ってくれたのは大学時代の生活があったからこそだと思っています。




