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モータースポーツ

佐藤琢磨のレース史|未来への扉を自らこじ開けていく“人間力”の高さ【インディカー編】

甘利隆

2020.09.24

2010年にKVレーシングからインディカー・シリーズへの参戦を開始する。(C)Getty Images

2010年にKVレーシングからインディカー・シリーズへの参戦を開始する。(C)Getty Images

 2020年8月、インディ500で2度目の優勝を飾った佐藤琢磨。多くはこのドライバーが順風満帆なレーシングキャリアを積んできたと思っていることだろう。ホンダの庇護を受け、環境に恵まれてきたのは確かだ。しかし、その一方で彼のレース人生は決して順風満帆だったわけではない。

 19歳でカートを始めた佐藤は、固い意志を持って計画を立て、目標に邁進する実行力、それを可能にするコミュニケーション能力や探求する力で、自らの道を切り開き、F1参戦に至る。しかしチームの解散により志半ばでその道は閉ざされ、キャリアの終えんさえ考える状況に陥った…。今回は【インディカー編】として、F1後に佐藤が歩んだ道のりについてたどる。

   ◆   ◆   ◆

 F1でのキャリアに幕を閉じた佐藤は、"F1浪人"の1年を経て、2010年よりアメリカに戦いの場を移した。KVレーシングからインディカー・シリーズへの挑戦をスタートするが、当然ながらすぐに結果を出すまでには至らなかった。

 同シリーズは、楕円形のスーパースピードウェイとショートオーバル、ロードコース、市街地コースの4種類の異なるコースがそれぞれ何戦かずつ組み込まれているのが特徴の1つ。この年、佐藤はルーキーながらオーバルトラックの第8戦アイオワで3位を走行、ツインリンクもてぎでの第16戦インディジャパン300にて12位と健闘を見せたが、全17戦中8戦を完走。第11戦エドモントンでの9位が最高位とランキング21位にとどまり、洗礼を受けたシーズンとなった。初めてのインディ500は20位完走で終えた。

 続く2011年もKVレーシングから参戦。チームが体制を強化した効果もあり、第8戦アイオワ、第10戦エドモントンで日本人ドライバー初となるポールポジションを獲得した。第11戦ミッドオハイオではシーズン最高位となる4位に入賞し、ランキングも13位と前年の成績を上回る。予選10位からスタートしたインディ500では序盤でクラッシュし、無念のリタイアとなった。
 
“予選でフロントローを獲得できるドライバー”を望む元インディカー王者のボビー・レイホールに請われ、2012年はレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングへと加入。第4戦サンパウロで初の3位表彰台に上がった。第11戦エドモントンでも2位表彰台を獲得する等、安定した結果を残したが、ランキングは14位と前のシーズンよりダウンしてしまう。

 だが、この年はランキング以上の存在感を周囲に示した。3回目となるインディ500では31周にわたって先頭を走り、終始トップグループを走行。最終ラップのターン1でレースをリードするダリオ・フランキッティのインへと飛び込むが、フランキッティの巧みなテクニックに阻まれ、バランスを失ってウォールに接触。惜しくも勝利を逃し、大きな“忘れ物”を残すも、強い印象を与えた。

「NO ATTACK NO CHANCE(攻めなければ、チャンスはない)」を信条とするインディ500での果敢な走りは、全米のファンだけでなく、インディ500を4度制した伝説のドライバー、A.J.フォイトの目も惹き付けていた。2013年から2016年にかけては、このレジェンドが率いるA.J.フォイト・レーシングで戦うことになる。

 新チームでのスタートとなった年の第3戦、ロングビーチでは参戦4年目にして初優勝。インディカー・シリーズで初めての日本人ウイナーとなった。続く第4戦サンパウロでも2位表彰台を獲得し、一時は日本人として史上初の総合首位にも立つも、シーズンが終了してみればランキング17位。インディ500でも1年前の快走を再現できず、13位完走に終わった。
 

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