6年振りに復帰したレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングから連覇を狙って参戦した2018年のインディ500では不運に見舞われた。16番グリッドからスタートした決勝では、黒旗が提示されていたにも関わらず、ピットに入らなかったドライバーと接触してリタイア。だが、第11戦アイオワで3位表彰台に上がったのに続き、第16戦ポートランドではロードコース初の優勝を果たす。しかし、レースによるリザルトの乱高下が激しく、ランキングは12位でシーズンを終えた。
レイホール復帰2年目の2019年シーズンは、第3戦バーバーで通算8度目のポールポジションを獲得すると、決勝レースでもトップのまま逃げ切って自身初となるポール・トゥ・ウィンを決めた。
14番グリッドからスタートしたインディ500決勝では、一旦は周回遅れになりながらも徐々に挽回し、終盤にはトップ争いを展開。最終的には3位でゴールする。
第15戦マディソンでも最後尾まで後退しなが粘りの走りを見せ、2位を0.0399秒の僅差で抑えて優勝。この勝利はインディカー・シリーズに参戦して初めてのシーズン2勝目、通算5勝目であるだけでなく、ショートオーバルでの初勝利となり、同シリーズで開催される4つの異なるタイプのコース全てで勝利を収めた数少ないドライバーの1人となった。ランキングも2017年の8位に次ぐ9位とひと桁に復帰した。
そして新型コロナウイルスの影響で開催時期が大幅にずれ込んだ2020年のインディ500。引き続きレイホールから参戦し、予選3位を獲得。初めてフロントローからスタートした佐藤は、満を持して終盤の185周目、このレース2回目のトップに立ち、2度目の優勝を飾った。
クラッシュが起こったためイエローコーションのままチェッカーフラッグが振られて勝負は決したが、「最後まで爪を隠し、余裕を持ってレースを運べた」と語ったとおり、レースを支配していたのは、43歳のベテラン、佐藤だった。
インディ500で複数回優勝したドライバーは、100年を超えるヒストリーの中でわずか20人。勝者の証であるミルクを2回飲み干した「タク・サトー」はブリックヤードのレジェンドとなった。
余談となるが、2019年より佐藤は自分を育ててくれたSRS(鈴鹿サーキットレーシングスクール)のプリンシパル(校長)を務めている。そしてその就任会見では「技術に加え、重視していきたいのは“人間力”」と述べた。
モータースポーツの世界に飛び込んだ時期が遅かった彼を成功に導いた大きな要因の1つは、実行力、コミュニケーション能力、探求力を含んだ“人間力”だろう。なぜなら、19歳の琢磨少年は、レーシングカートの実績が乏しい自分が10人に1人の確率でしか入校できないSRSの選考を突破する方法を考え、自ら面接を提案し、F1、そしてインディ500へと続く未来への扉をこじ開けたのだから。
文●甘利隆
著者プロフィール/東京造形大学デザイン科卒業。都内デザイン事務所、『サイクルサウンズ』編集部、広告代理店等を経てフリーランス。Twitter:ama_super
【PHOTO】インディ500で2度優勝!レース界の“伝説”佐藤琢磨のレースキャリアを写真で振り返る
レイホール復帰2年目の2019年シーズンは、第3戦バーバーで通算8度目のポールポジションを獲得すると、決勝レースでもトップのまま逃げ切って自身初となるポール・トゥ・ウィンを決めた。
14番グリッドからスタートしたインディ500決勝では、一旦は周回遅れになりながらも徐々に挽回し、終盤にはトップ争いを展開。最終的には3位でゴールする。
第15戦マディソンでも最後尾まで後退しなが粘りの走りを見せ、2位を0.0399秒の僅差で抑えて優勝。この勝利はインディカー・シリーズに参戦して初めてのシーズン2勝目、通算5勝目であるだけでなく、ショートオーバルでの初勝利となり、同シリーズで開催される4つの異なるタイプのコース全てで勝利を収めた数少ないドライバーの1人となった。ランキングも2017年の8位に次ぐ9位とひと桁に復帰した。
そして新型コロナウイルスの影響で開催時期が大幅にずれ込んだ2020年のインディ500。引き続きレイホールから参戦し、予選3位を獲得。初めてフロントローからスタートした佐藤は、満を持して終盤の185周目、このレース2回目のトップに立ち、2度目の優勝を飾った。
クラッシュが起こったためイエローコーションのままチェッカーフラッグが振られて勝負は決したが、「最後まで爪を隠し、余裕を持ってレースを運べた」と語ったとおり、レースを支配していたのは、43歳のベテラン、佐藤だった。
インディ500で複数回優勝したドライバーは、100年を超えるヒストリーの中でわずか20人。勝者の証であるミルクを2回飲み干した「タク・サトー」はブリックヤードのレジェンドとなった。
余談となるが、2019年より佐藤は自分を育ててくれたSRS(鈴鹿サーキットレーシングスクール)のプリンシパル(校長)を務めている。そしてその就任会見では「技術に加え、重視していきたいのは“人間力”」と述べた。
モータースポーツの世界に飛び込んだ時期が遅かった彼を成功に導いた大きな要因の1つは、実行力、コミュニケーション能力、探求力を含んだ“人間力”だろう。なぜなら、19歳の琢磨少年は、レーシングカートの実績が乏しい自分が10人に1人の確率でしか入校できないSRSの選考を突破する方法を考え、自ら面接を提案し、F1、そしてインディ500へと続く未来への扉をこじ開けたのだから。
文●甘利隆
著者プロフィール/東京造形大学デザイン科卒業。都内デザイン事務所、『サイクルサウンズ』編集部、広告代理店等を経てフリーランス。Twitter:ama_super
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