マラソン・駅伝

【瀬古利彦リーダーの目】「私はダメだと思っている」世界を目指す箱根ランナーがあるべき姿とは?

永野祐吏(THE DIGEST編集部)

2021.01.30

早稲田大時代4年連続花の2区を走った瀬古さん。五輪も2大会連続出場した。写真:塚本凜平(THE DIGEST写真部)

 駒澤大が最終10区で3分19秒差をひっくり返す劇的勝利で幕を閉じた、箱根駅伝。感動的な結末に隠れているが、下馬評が高かった各大学のエースらが不発に終わった大会でもあった。

 その背景のひとつが、コロナ禍によるスケジュールだ。当初6月に予定されていたオリンピック選考会の『日本選手権』が、箱根駅伝を1か月前に控えた12月4日に実施された。同大会には出場資格を持つ各大学のエースらが参戦し、好走を見せた。

 ところが日本選手権に出場したランナーらは、箱根ではいまひとつ振るわなかった。駒澤大の田澤廉は2区を任されるも区間7位(1時間7分27秒)。同じく2区を走った日本体育大の池田耀平は区間3位(1時間7分14秒)だったが、早稲田大の太田直希は区間13位(1時間8分17秒)。3区を任された中谷雄飛は区間6位(1時間3分29秒)、中央大の吉居大和は区間15位(1時間5分2秒)に泣いたのだ。

 この結果に、日本陸上競技連盟のマラソン強化・戦略プロジェクトリーダーの瀬古利彦氏は「日本選手権で力を使い果たしたので、その後あまり練習してないと思う。でも私は、それではダメだと思っている。これから世界を目指すなら、両方走らなければいけない」と不満げだ。

 瀬古氏は、早稲田大1年時からマラソン練習と並行し、箱根駅伝などでも活躍したことで知られている。1979年12月2日(当時4年)、福岡国際マラソンで2時間10分35秒のタイムで優勝し、モスクワ五輪代表に内定すると、1か月後の1980年の箱根駅伝では2区(当時24.4km)を走り、区間新記録で区間賞という快挙を達成。瀬古氏は「箱根駅伝の20何キロぐらいは、マラソンの距離の半分。そういう気持ちで走っていた。だから両方走るのは当たり前だった」と当時を振り返った。
 
 例年は6月に開催されている『日本選手権』だが、仮に今後12月開催になっても「両方しっかり走れるぐらいの地力を上げていかないと」。瀬古氏は学生の課題をそう指摘し、「やっぱり世界を目指すにはトラックでドーンと(記録を)出して、区間新記録とは言わないけど、それに近いぐらいの、記録で走るぐらいの力をためないと、世界には追いつかないと私は思うよ」とも語っている。

 また、強化リーダーの瀬古氏は、各大学の指導者に「(直前の大会に選手を)出したからしょうがない。次からは出さないでおこう…って、それはダメ。両方走れる選手を作ってほしい。ここを逃げ道にしてほしくない。両方走ったら世界に通用すると思う」と期待を寄せ、それが「オリンピックを目指すランナーの宿命」であると位置づけている。

取材・文●山本祐吏(THE DIGEST編集部) 

【PHOTO】創価大と攻防を繰り広げ、大逆転で優勝を飾った駒澤大!第97回箱根駅伝を振り返る