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格闘技・プロレス

長州との激闘は今も色褪せない。新日本プロレス50周年記念で“創立メンバー”藤波辰爾が語った新日への愛

どら増田

2022.03.06

棚橋(右)とオカダ(左)という現在の新日本を支えるトップレスラーたちに挟まれた藤波(中央)。だが、レジェンドの存在感は今なお健在だった。写真:徳原隆元

棚橋(右)とオカダ(左)という現在の新日本を支えるトップレスラーたちに挟まれた藤波(中央)。だが、レジェンドの存在感は今なお健在だった。写真:徳原隆元

 3月1日の日本武道館大会で、新日本プロレスは創立50周年記念の『旗揚げ記念日』を数多のOBを招いて開催した。だが、本当の50周年は今日6日となる。50年前の1972年3月6日、新日本は大田区体育館(現在は建て替えられた大田区総合体育館)で旗揚げをした。

 メインイベントは、アントニオ猪木がカール・ゴッチに挑んだ師弟対決。後者が勝利を収めたのだが、猪木の“負けの美学”はここから始まったと言ってもいいだろう。

 ちなみに私は1973年7月生まれで、新日本プロレスの存在を知るのは、1981年4月23日。初代タイガーマスク(以降タイガー)のデビューがキッカケだった。よって私にとってプロレス・ファン歴は41周年になる。

 金曜の夜8時になると、タイガーの入場をテレビで見るのが日常だった時代。翌日の土曜日、学校での話題はタイガー一色だった。私たちの世代は、猪木の試合よりも、アニメ『タイガーマスク2世』から飛び出してきたタイガーの四次元殺法の方が強烈だったのだ。

 もちろん猪木とはぐれ国際軍団による抗争や、アンドレ・ザ・ジャイアントら大物外国人選手との試合も見ていた。だが、タイガーの次に興味を持っていた藤波辰巳(現在は辰爾)と長州力の抗争に比べると当時は劣って見えていた。

 猪木の魅力に気づくのは、引退が近づくにつれて、馳浩、グレート・ムタ、ビッグバン・ベイダーとの闘いのなかで凄みを感じ、そこから昔の試合を見返してからである。

 そんな私にとって、藤波も長州もタイガーも出場しなかった(タイガーは最終戦のみ出場)1983年に開催された第1回『IWGP』は、今思えば凄まじい大会だった。会場も熱気に溢れていたのだが、当時は退屈だった印象が強い。

『IWGP』優勝決定戦で、猪木がハルク・ホーガンにKOされ、欠場を余儀なくされた翌日の『サマーファイトシリーズ』で、私の地元である神奈川県横浜市金沢区六浦に新日本が奇跡的にやって来た。地元の商店が一体となって誘致したのだ。

 控室が特設テントという屋外会場ながら、私の人生初の生観戦は、ここで実現した。前座で長州&アニマル浜口が出場し、タイガーは星野勘太郎とのタッグで出場した。ラッシャー木村とタイガー戸口、坂口征二とアブドーラ・ザ・ブッチャーなど地方大会とは思えぬ好カードが組まれた。

 メインでは藤波、木村健悟、前田明(現在は日明)が、ディック・マードック、アドリアン・アドニス、ブライアン・ブレアーに快勝した。やっとタイガーの試合を生で観られたのに、彼はこのシリーズ終了後、引退を表明してしまう。ショックだった。
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