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「偉大な伝説」「ドリフトの発明者」 故・高橋国光氏の輝かしいキャリアを欧州メディアが称賛!元F1王者バトンも「クニミツサン」に哀悼の意

THE DIGEST編集部

2022.03.18

高橋氏(中央)に各国メディアが哀悼の意を捧げている。写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ

 現役時代は2輪、4輪のレースで活躍し、引退後は「TEAM KUNIMITSU(チーム国光)」の総監督としても活動した日本モータースポーツ界のレジェンド、高橋国光氏が3月16日、82歳で亡くなったことを、本田技研工業が発表した。

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「国さん」の愛称で親しまれた高橋氏は1940年1月29日に東京都小金井市で誕生し、日本のモータリゼーションの黎明期からバイクに親しみ、58年の全日本クラブマンレース・ジュニア(350cc)の優勝を皮切りに国内の大会を次々に制してホンダのワークスライダーになると、60年からロードレース世界選手権に参戦、翌年には西ドイツ(当時)グランプリの250ccクラスで、日本人として初めて優勝を飾った。

 その後も勝利を重ねるも、62年のマン島TTレースで転倒事故を起こして重体に陥った後、以前の走りができなくなったことで2輪のキャリアを終え、4輪レースに転向。64年に日産の追浜ワークスに加入して間もなく日本のトップドライバーとなり、全日本F2(後にF3000)という国内のトップフォーミュラレースでも活躍、そして77年に最初で最後のF1参戦をスポット参戦という形で実現し、富士スピードウェイでの日本GPで中古のティレルを駆って予選22位から決勝では9位まで順位を上げた。
 
 80年代以降は、耐久レース、ツーリングカーレースで活動。全日本耐久選手権で優勝9回&総合優勝4回、全日本ツーリングカー選手権で優勝4回、全日本GT選手権で優勝3回といった実績を挙げた他、92年にチーム国光を立ち上げ、3年後にオールジャパン体制でGT2クラスに参戦したル・マン24時間レースで初のクラス優勝を成し遂げている。

 2輪、4輪合わせて489レースに出場して通算71勝という成績を残して1999年に59歳で現役を退き、監督に専念してからは、2018、20年にスーパーGT選手権で総合優勝。時折、ヘルメットを被っては往年の技を披露し、20年にモータースポーツの発展への長年の貢献が認められて「スポーツ功労者文部科学大臣顕彰」を受章した。

 ここ数年は悪性リンパ腫との闘いを強いられていたという高橋氏の逝去を受け、本技研工業の三部敏宏・代表執行役社長が「高橋氏は、ホンダ・モータースポーツ活動の黎明期に、ライダーとして、共に世界の舞台にチャレンジして下さった方であり、4輪レースにおいても4半世紀以上にわたりホンダのマシンで参戦し続け、数多くの勝利を共に挙げてきました。高橋氏の存在はホンダにとってだけではなく、全てのモータースポーツ関係者にとって宝そのものだと思います」と声明を発表し、冥福を祈っている。