食と体調管理

「子どもたちが公園でラグビーをしてくれる日が来るなんて」田中史朗が感じる日本ラグビーの変化と成長。過酷な競技を続けるための食習慣

吉田治良

2023.08.01

写真:NECグリーンロケッツ東葛

 アスリートへのインタビューを通し、明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。今回登場するのは、NECグリーンロケッツ東葛に所属するラグビー選手の田中史朗選手。

 日本人初となるスーパーラグビーへの挑戦や3度のワールドカップ出場を果たした日本ラグビー界のトップランナーがこれまでの歩みや日本中を感動と興奮に包んだワールドカップ、ジュニアアスリートへのアドバイスなどを語ってくれた。

■ラグビーとの出会い

──ラグビーを始めたきっかけは?

 始めたのは9歳、小学4年生の時ですね。仲の良かった近所のお兄ちゃんが中学でラグビー部に入っていて、「お前もラグビーやったら?」って勧められたのがきっかけです。

 ひとつ上の兄がサッカーをやっていて、同じことはやりたくないなっていう気持ちもありましたね(笑)野球も選択肢にはありましたがグローブとかいろいろとお金がかかることを考えてラグビーにしました。

──それまで、何かスポーツはされていたんですか?

 ソフトボールやバスケットボールもやらせてもらいましたが、もともと運動能力が高いほうではなくて、ほとんど遊び感覚でしたね。ラグビーも、最初は一緒にやっている同級生とおしゃべりしているのが楽しかっただけなんです(笑)。

──スポーツの才能がなかった? 

 まったくなかったですね。足は遅かったですし、背もちっちゃかったですから。でも、かなりの負けず嫌いでもあったので、そこをどうやって克服するかっていうことは、ずっと考えていましたね。

──ラグビーにのめり込んでいく、転機のようなものはあったんですか。

 高校2年生の時に、レギュラーの先輩が大学受験で出場できなかった京都府大会の決勝に、僕がスタメンで出させてもらったんですが、その大事な試合に負けて花園(=全国高校ラグビーフットボール大会)に行けなかったんです。すべて自分のせいというわけではなかったんですが、すごく責任を感じてしまって……。一時はラグビーを辞めようかなって思いましたね。

 でも、先輩方から「お前らの代は絶対に花園に行ってくれよ」って、ずっと声を掛けていただいて。それで罪滅ぼしというか、自分たちの世代でちゃんと勝って、その姿を先輩方に見てもらわないといけないって、そう思うようになったんです。そこからですね、本気でラグビーにのめり込んだのは。



──名門の伏見工業では、1年生の時に全国制覇を経験されていますよね?

 その時はメンバーにも入っていませんでした。ラグビー自体もそこまで夢中ではなかったというか、ただただしんどかっただけでしたね。ですが、2年生で味わったあの敗戦をきっかけに、そこからは世界のラグビーも見るようになったんです。

──将来、世界で通用するラグビー選手になりたいと、そこで思われた?

 そこまでは全然思っていなかったです。ただ世界のラグビーを見て、学んで、自分たちの代で花園に行こうという思いだけでした。

──中学時代も周りから注目されるような選手だったんですか?

 まったくです(笑)。京都府の代表にも入れませんでしたし。そう考えると、中学のラグビー部の先生が「伏見工業に行ったら?」って声を掛けてくれたことが大きかったですね。そうじゃなかったら、実家が農家だったので、たぶん農業高校に進学していたと思います。

──伏見工業では、3年生の時に目標を実現して全国大会に出場(2002年の第82回大会)し、ベスト4入りを果たしました。その頃はもう、ラグビー選手としてやっていける自信はあったんですか?

 大会前までは、一度もアンダー世代の日本代表に呼ばれたことがなかったんです。花園でベスト4になって、初めて高校日本代表に選ばれた時くらい、高校生活の最後の最後ですかね。ラグビーで生きていく道もあるかもしれないって、思えるようになったのは。

──卒業後は京都産業大学へ進学されます。

 全国大会の前から京産大には声を掛けていただいていて、その頃はまだ農家をやるのか迷っていたんですが、大学を卒業してからでも農家はできるだろうって(笑)。

──4年生の時の大学選手権では、京産大を9年ぶりのベスト4に導きましたね。

 はい。でも準決勝で五郎丸(歩)のいた早稲田大学にボコボコ(12-55)にされました(苦笑)。