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食と体調管理

「長くトップで活躍し続けることでこれからのバレーボール界の指標になりたい」大怪我を乗り越えて東京五輪出場を果たした清水邦広の新たな目標と日々を支える食習慣

元川悦子

2023.09.01

写真提供:Panasonic PANTHERS

写真提供:Panasonic PANTHERS

 明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。今回はTOKYO2020の男子バレーボール代表として活躍し、現在はパナソニックパンサーズでプレーする清水邦広選手が登場。バレーボールを始めたきっかけや学生時代、21歳での日本代表入り、2008年北京・2021年東京五輪に参戦した思い、今後の目標、さらなる飛躍を目指すための食生活まで幅広く語ってくれた。

■バレーボールをはじめたきっかけ

――清水さんのバレーボールとの出合いを教えてください。

 幼少期の僕は物凄い人見知りで、「土日のキャンプがあるから家でハンコをもらってきてください」と先生に言われても、行きたくないからそのまま捨ててしまったりしていて母が心配していました。

 そこで母が参加していたママさんバレーの練習に僕を連れて行くようになったんです。最初は周りの友達と遊んでいただけだったんですけど、「お母さん、何してるんやろ」とだんだん競技に興味が移っていって、いつの間にか「僕もお母さんみたいなエーススパイカーになりたい」と思うようになりました。

 当時、自分の小学校は5年生からしかチームに入れなかったですけど、僕の思いを聞いた母が学校に直談判してくれて、4年生から入れるようになりました。

――身長は子供時代から大きかったですか?

 中学に入学した時は168センチで少し大きいくらいでしたけど、卒業時には188センチになっていました。その後は4~5センチしか伸びませんでした。

――それだけのサイズがあれば、バレーボール界でも注目されますね。

 中学生の全国都道府県対抗大会、当時はアクエリアスカップという名称でしたけど、そういう大会にも出させてもらいましたね。福井県代表はベスト16で負けたんですけど、将来有望な選手に贈られる賞をいただきました。ジュニア選抜とかにも選んでもらって、いろんなところに行きました。

 でも中学の最初のころはそこまでではなくて、小学校の時に見様見真似でスパイクを打っていたせいで、僕は左利きなのに右利きの助走をしていて治すのに半年くらいかかりました。あと中2のときにボールが目に当たって網膜剥離になってしまい、3~4カ月バレーボールが出来なかったりしましたが、中学時代の先生の教え方がうまくてメキメキと成長が出来た時期でした。
 
■ライバルとの出会い

――福井工業大学付属福井高校は推薦入学ですか?

 はい。中2の網膜剥離になった時に高校の堀監督がゴーグルを探してくれたんですよ。「目に当たっても心配ないよ」と。そのご恩があったので、先生に恩返しがしたくて、工大福井に行くことにしました。

 もう1つのきっかけは、中学の先生から「あなたは『すごい選手』じゃなくて、『うわー!すごい』っていう選手になりなさい」と言って頂いたのですが、『うわー!すごい』選手がどんな選手なのかイメージできていなかったんです。

でも中3の時にVリーグのサントリーの試合を間近で見たる機会があって、僕と同じオポジットの元ブラジル代表、ジルソン・ベルナルド選手のプレーを『うわー!すごい』と思ったんです。その試合で先生の言葉の意味が分かったと感じて、「こんなにすごい選手がいるんなら俺もなりたい」とVリーガーを本気で目指すと決めて、そのためには福井工業大学付属福井高校だと思って入学しました。

――高校時代はどんな取り組みを?

 僕は中学時代から「足が細い」と言われていたので、その強化が課題だと考えていました。当時はインターネットもないですし、誰かに教えてもらうのも好きじゃなかったんで、自分なりに試行錯誤して1日5~6キロ走ろうと決めて実践しました。

 今では僕が走ったその道を後輩たちが『ゴリロード』と呼んで走ってくれてます。いい意味で歴史になったのかな(笑)。

――全国大会も常連でしたよね。

 そうですね。高校3年の時には春高・インターハイ・国体。全国大会に全て出ました。でも全て洛南高校(京都府)に負けてしまった。その洛南のエースが福澤達哉(元日本代表/2021年現役引退)でした。監督同士が同級生だったこともあり、大会以外でもよく練習試合をやっていて、練習試合では5分5分の勝率なのに、なぜか本番では勝てなくて…。

 とくに忘れられないのが、高3の2004年8月11日のインターハイ。その日はちょうど僕の誕生日でした。最終セットに2~3点リードしていたので「初めて洛南に勝てる」と思ったら、まさかの逆転負け。僕はコートで大の字になって起き上がれませんでした。泣きましたし、本当に悔しかった。そのときの「福澤に負けたくない」という気持ちが湧かなかったら、僕はここまで頑張ってこれなかったと思うくらいです。

――大学は東海大学に進学されました。

 とにかく大学で福澤に勝ちたかったので、福澤が中央大学に行くならば自分は関東の別の大学に行こうと決意して、東海大学に進みました。

 でも東海大に入った頃の自分は全然ダメでした。周りのレベルが高くて、自分のバレーが全然できなかった。有望選手だからという理由で1年から使ってもらってはいましたけど、スパイクをミスしてブロックされて下げられるという繰り返しで苦労しました。

 福澤の方は1年からレギュラーを掴んでエースとして活躍している。「こんなに差を広げられたのか」と落胆しましたが、「福澤を追い抜くには何をすればいいか」と考えて、試合でミスが20%を越えたり、スパイクの決定率が54%以下だったら、先輩に「ワンマン(※スパイクやレシーブをずっと1人で繰り返し練習すること)ください」とお願いしたんです。

 先輩も「清水が俺にやられるなら、俺も清水にやられるわ」と付き合ってくれて、一緒に成長しようと頑張ってくれました。その成果もあって少しずつ数字が上がり、ミスが減って、自信がついていきました。そして大学の対戦では最終的に福澤に勝つところまで辿り着くことができました。
 

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