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【名馬列伝】日本競馬史上初の五冠馬・シンザンの生涯。実況アナが思わず「消えた!」と叫んだ伝説のラストラン

三好達彦

2024.03.17

「五冠馬」の称号を得たシンザン。数多くの伝説を残した。写真:産経新聞社

 太平洋戦争の勃発が1941年の暮れ。年を追うごとに日本の戦局は悪化し、当然のごとく競馬にも影響が及び、開催は縮小の一途をたどる。それでもなかなか中止には至らず、大戦も終盤の44年になって、やっと馬券発売を伴う開催に中止の命が下った。

 前述で「馬券発売を伴う開催」と断ったのには理由がある。実際には1944年にも帝室御賞典(現在の天皇賞)や、東京優駿(日本ダービー)や優駿牝馬(オークス)などの大レースは馬券を売らず、関係者以外は競馬場に入れない状態で「能力検定競走」の名のもとに開催されていたからだ。一説によると、その頃すでに馬主の資格を得ていた作家の菊池寛は、東京優駿を現場で見た数少ない関係者のひとりであったという。

 戦後、JRA(日本中央競馬会)の前身である日本競馬会の主催で競馬が再開されたのは終戦の翌年である46年。戦地で生き残った関係者、北海道や東北に疎開していた人と馬も厩舎に戻り、徐々にではあるが復興への歩を進めていった。

 日本競馬会が吉田茂内閣のもとで策定された競馬法によって特殊法人「日本中央競馬会」に改組されたのが54年。その2年後には中山グランプリ(現在の有馬記念)が新設され、59年にはハクチカラがアメリカ遠征を果たすなど長足の進歩を続けて熱心なファンを増やしてきた日本競馬にとって、待望のスーパーヒーローが誕生したのは、一度目の東京オリンピックが開催された64年。日本競馬史上2頭目となる戦後初のクラシック三冠馬となった「五冠馬」シンザンだった。
 
 シンザンの父は、55年に英国から日本へ輸入され、計7度のリーディングサイアーに輝いた愛ダービー馬のヒンドスタン。北海道・浦河町にある松橋吉松の牧場で母ハヤノボリ(父・ハヤタケ)の仔として生を受けた。骨量の豊かさを評価され、橋元幸吉に高価で買い取られ、京都競馬場に厩舎を構える名伯楽、武田文吾の厩舎へと預託される。

 シンザンは調教で"走らない"ことで知られた。担当厩務員の中尾謙太郎(のちに調教師となって桜花賞馬ファイトガリバーなどを管理)は、他の厩務員に馬鹿にされたり、からかわれたりするほどだったという。

 だが、本番のレースへ向かうと、シンザンは強かった。2歳の11月に新馬戦(京都・芝1200m)でデビュー勝ちを飾ると、6連勝で一冠目の皐月賞を制してしまう。しかし武田は、同厩のオンワードセカンドの方が強いと見ており、実際にスプリングステークスでのシンザンは単勝オッズ10.5倍の6番人気に過ぎなかった。しかし武田の愛弟子である騎手の栗田勝はシンザンのポテンシャルの高さを見抜いて惚れ込み、決して手綱を他に渡そうとはしなかった。武田はスプリングステークスのあと、シンザンに向かって己の不明を恥じたと伝えられている。
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俗称『シンザン鉄』が誕生。日本ダービーを制し二冠達成