競馬

【名馬列伝】”ミスター競馬” 野平祐二に「スーちゃん」と呼ばれ、愛されたスピードシンボリ。現代競馬の礎を作った歴史的名馬の激闘譜

三好達彦

2024.07.22

顕彰馬に選ばれ、歴史的名馬の1頭と称されるスピードシンボリ。鞍上は主戦の野平祐二。写真:産経新聞社

 通算成績は43戦17勝と勝率は5割にも満たず、"旧八大競走"の勝利は天皇賞(春)と有馬記念(2回)の3つのみ。他のトップホースと比べるとやや見劣りする成績でありながら、その蹄跡が関係者から高い評価を受けて顕彰馬に選出されたのがスピードシンボリである。

 彼が顕彰馬に選ばれ、歴史的名馬の1頭と数えられるのは何故か。そのポイントを中心に戦歴を振り返ってみたい。

 父にアイルランド産の重賞勝ち馬のロイヤルチャレンヂャー、母に英国からの持込馬であるスイートイン(父Rising Light)を持つスピードシンボリは、北海道のシンボリ牧場新冠支場で1963年5月3日に生を受けた。

 脚が長く体高もあったが、馬体が薄かったため地味な存在だった。そのため、なかなか買い手が付かず、最終的にはシンボリ牧場の二代目オーナーである和田共弘の名義で走らせることになった。厩舎は中山の野平富久に決まり、のちにはその弟で、"ミスター競馬"とまで呼ばれるようになる野平祐二が主戦騎手となる。
 
 2歳の10月にデビューしたスピードシンボリは11月から12月にかけて3連勝するが、3歳初戦の弥生賞で6着に敗れる。メンバーが薄かったことから急遽出走を決めた京成盃には勝つものの、皐月賞は21着。NHK杯の13着を経て臨んだ日本ダービーは8着と、春の時点ではトップホースとの力量差は歴然としていた。

 しかしスピードシンボリはひと夏を越えて、大きく成長した。京王杯オータムハンデを2着、セントライト記念を3着として臨んだ菊花賞。14番人気という低評価に抗うように後方から目の覚めるような末脚を繰り出して、勝ったナスノコトブキにハナ差まで迫る2着に健闘したのである。

 その後、有馬記念で差のない3着に食い込んで古馬トップクラスと互角に戦える力を証明したスピードシンボリは、4歳になるとアメリカJCC、目黒記念(春)を連勝し、続く天皇賞(春)でカブトシローを下して優勝。ついに晩成の血を開花させてビッグタイトルを手にした。
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