レガシーワールドはせん馬となる典型的な足跡をたどっていた。ミホノブルボンを育てた名伯楽として知られる戸山為夫に見出されたレガシーワールドは、戸山が想像したように調教で素晴らしい走りを見せた。
ところがレースに行くと、高いポテンシャルをまったく発揮できず、無残な敗戦を積み重ねた。パドックでは大汗をかきながら暴走しかねない激しい入れ込みを見せたり、あるときはスターティングゲート内で膠着して10馬身以上も出遅れ、発走再審査を課されたりもした。原因は激しすぎる気性だった。父モガミの産駒には気性の難しさを見せる馬が少なくなく、レガシーワールドはそうしたメンタルな傾向をモロに受け継いでしまったのだ。
レガシーワールドは1991年8月にデビューするが、初勝利を挙げたのは翌年7月、福島の未勝利戦(芝1800m)と、実に7戦目でのことだった。
彼が初勝利を収めるまでの間には、ひとつの重大な出来事があった。5戦目を終えたあとに骨折を発症。約7か月の休養を経るのだが、この間に戸山の決断により去勢手術を行なったのだ。その目的はもちろんレガシーワールドの気性を落ち着かせ、全能力を発揮させるためだった。去勢することに関して戸山に迷いがなかったわけではないだろう。何せ牡馬にとって究極の目標である種牡馬への道を断ち切ってしまう決断だからだ。しかし、連戦連敗の暗く長いトンネルのなかにいた人馬にとっては、背に腹は代えられないというのが正直な気持ちだったのだと推察する。
せん馬となったレガシーワールドは初勝利を挙げたあと、3着を挟んで500万下特別、900万下特別を連勝。続くオープン特別を2着として、セントライト記念(GⅡ)にエントリー。ついに重賞の舞台までたどり着いた。そしてこの一戦、スタートからハナを切り、1000m通過が60秒6という絶妙なペースで逃げると、直線でも粘りに粘り、のちに菊花賞を制することになるライスシャワーの差し脚をわずかにアタマ差で制して、重賞初挑戦にして初勝利を挙げたのだった。
せん馬であるがゆえ菊花賞に出走できないレガシーワールドはここからの2戦、オープン特別を2連勝し、その勢いを駆ってジャパンカップ(GⅠ)に挑んで、トウカイテイオーの4着と健闘。続く有馬記念は逃げるメジロパーマーに並ぶところまで詰め寄り、ハナ差の2着に食い込んでトップホースとしてのポジションを確たるものとし、充実した3歳のシーズンを終えた。
ところがレースに行くと、高いポテンシャルをまったく発揮できず、無残な敗戦を積み重ねた。パドックでは大汗をかきながら暴走しかねない激しい入れ込みを見せたり、あるときはスターティングゲート内で膠着して10馬身以上も出遅れ、発走再審査を課されたりもした。原因は激しすぎる気性だった。父モガミの産駒には気性の難しさを見せる馬が少なくなく、レガシーワールドはそうしたメンタルな傾向をモロに受け継いでしまったのだ。
レガシーワールドは1991年8月にデビューするが、初勝利を挙げたのは翌年7月、福島の未勝利戦(芝1800m)と、実に7戦目でのことだった。
彼が初勝利を収めるまでの間には、ひとつの重大な出来事があった。5戦目を終えたあとに骨折を発症。約7か月の休養を経るのだが、この間に戸山の決断により去勢手術を行なったのだ。その目的はもちろんレガシーワールドの気性を落ち着かせ、全能力を発揮させるためだった。去勢することに関して戸山に迷いがなかったわけではないだろう。何せ牡馬にとって究極の目標である種牡馬への道を断ち切ってしまう決断だからだ。しかし、連戦連敗の暗く長いトンネルのなかにいた人馬にとっては、背に腹は代えられないというのが正直な気持ちだったのだと推察する。
せん馬となったレガシーワールドは初勝利を挙げたあと、3着を挟んで500万下特別、900万下特別を連勝。続くオープン特別を2着として、セントライト記念(GⅡ)にエントリー。ついに重賞の舞台までたどり着いた。そしてこの一戦、スタートからハナを切り、1000m通過が60秒6という絶妙なペースで逃げると、直線でも粘りに粘り、のちに菊花賞を制することになるライスシャワーの差し脚をわずかにアタマ差で制して、重賞初挑戦にして初勝利を挙げたのだった。
せん馬であるがゆえ菊花賞に出走できないレガシーワールドはここからの2戦、オープン特別を2連勝し、その勢いを駆ってジャパンカップ(GⅠ)に挑んで、トウカイテイオーの4着と健闘。続く有馬記念は逃げるメジロパーマーに並ぶところまで詰め寄り、ハナ差の2着に食い込んでトップホースとしてのポジションを確たるものとし、充実した3歳のシーズンを終えた。




