――代表での活動が増えて、心境の変化はありましたか?
私のキャリアでターニングポイントになったのは、16歳の時の世界選手権でした。それまでもユースの世界大会には出場していましたが、その時に初めて日本代表として世界大会に出場させてもらえて、日本の国旗を付けて出るのだから恥ずかしい登りはできないとか、予選落ちしたら合わせる顔がないなとか、そういったことが気になるようになって、急に日本代表というところに責任感を持つようになりました。それで、初めての世界選手権のリード種目で表彰台(3位)に上がれたことがきっかけで、もっと世界大会で活躍したいとか、ワールドカップで優勝して世界一になってみたいなと思ったんです。そこからは毎年たくさんの世界大会に出場するのがルーティーンのようになりました。
ワールドカップで初優勝できたのが18歳の時だったんですが、それから国内で連勝したり、ワールドカップで年間チャンピオンを獲ったりするにつれて、「負けられないな」「落ちられないな」といったプレッシャーを感じるようになりました。追う立場よりも追われる立場になってからのキャリアの方が長かったので、そういったプレッシャーはすごく感じていたと思います。
――そのプレッシャーをどうやって克服してきましたか?
クライミングにも勝ち負け、順位はありますが、実際は対人関係ではなく、自分の目の前の課題を登れるかどうかなんです。他の選手の結果が分からないなか、時間制限で自分がどこまで行けるか。自分との向き合いというか、自分がどんなパフォーマンスをするかがすべてだったので、キャリアを重ねるにつれて自分と向き合う時間がすごく増えましたね。
――クライミングでは、競技が終わった後にみんな笑顔で称え合う姿が印象的です。
もともとクライミングはそういう文化で、勝って嬉しくても、負けて悔しくても、一緒に戦い合えるライバルの存在が自分を高めてくれました。互いに切磋琢磨している時間がすごく楽しかったので、みんなも仲が良くて、すごく気持ちの良いスポーツだなって思いますね。
――クライミングは個人競技ですから、自分と向き合う作業はチームスポーツより一層大変なのかなと想像します。
チームスポーツではないですが、ひとりで見つけられることは限りがあって、自分ひとりだけでは伸ばせない領域もありました。初めて大きな怪我をした26歳の時にトレーナーを付けるようになりました。そこからは、人に頼るというか、教わる選択肢が増えて、違ったトレーニングを取り入れたり、メンタルコーチを付けたりもしたんです。東京オリンピックの場合は、スピード、ボルダリング、リードと3種目があったので、それぞれの種目のコーチを付けて練習する時間も増えました。
――少し話を戻しますが、16歳の時からジャパンカップを9連覇していますね。その要因は?
自分のなかでは9連覇できてよかったなというより、10連覇がかかった大会で初めて国内で負けてしまったことへの悔しさのほうが鮮明に覚えているので、なぜ勝てていたかというのは考えたことがないんです。
――負けた時の方が強烈な体験だったと。
自分も進化していますが、時代も進化していくので、そういったところも考えて、もっと新しいものを取り入れなければいけないと思いました。それが2015年頃です。その後に2018年くらいから成績も出せるようになって、2019年に八王子で行なわれた世界選手権で、日本人で最初のオリンピック内定を決めることができました。その頃には自分の気持ちや身体の状態もすごく復活してきて、オリンピックを自分の集大成と位置付けて、そこで引退しようと心に決めました。ただ、オリンピックを目指すのを迷っていた時期もあったんです。
私のキャリアでターニングポイントになったのは、16歳の時の世界選手権でした。それまでもユースの世界大会には出場していましたが、その時に初めて日本代表として世界大会に出場させてもらえて、日本の国旗を付けて出るのだから恥ずかしい登りはできないとか、予選落ちしたら合わせる顔がないなとか、そういったことが気になるようになって、急に日本代表というところに責任感を持つようになりました。それで、初めての世界選手権のリード種目で表彰台(3位)に上がれたことがきっかけで、もっと世界大会で活躍したいとか、ワールドカップで優勝して世界一になってみたいなと思ったんです。そこからは毎年たくさんの世界大会に出場するのがルーティーンのようになりました。
ワールドカップで初優勝できたのが18歳の時だったんですが、それから国内で連勝したり、ワールドカップで年間チャンピオンを獲ったりするにつれて、「負けられないな」「落ちられないな」といったプレッシャーを感じるようになりました。追う立場よりも追われる立場になってからのキャリアの方が長かったので、そういったプレッシャーはすごく感じていたと思います。
――そのプレッシャーをどうやって克服してきましたか?
クライミングにも勝ち負け、順位はありますが、実際は対人関係ではなく、自分の目の前の課題を登れるかどうかなんです。他の選手の結果が分からないなか、時間制限で自分がどこまで行けるか。自分との向き合いというか、自分がどんなパフォーマンスをするかがすべてだったので、キャリアを重ねるにつれて自分と向き合う時間がすごく増えましたね。
――クライミングでは、競技が終わった後にみんな笑顔で称え合う姿が印象的です。
もともとクライミングはそういう文化で、勝って嬉しくても、負けて悔しくても、一緒に戦い合えるライバルの存在が自分を高めてくれました。互いに切磋琢磨している時間がすごく楽しかったので、みんなも仲が良くて、すごく気持ちの良いスポーツだなって思いますね。
――クライミングは個人競技ですから、自分と向き合う作業はチームスポーツより一層大変なのかなと想像します。
チームスポーツではないですが、ひとりで見つけられることは限りがあって、自分ひとりだけでは伸ばせない領域もありました。初めて大きな怪我をした26歳の時にトレーナーを付けるようになりました。そこからは、人に頼るというか、教わる選択肢が増えて、違ったトレーニングを取り入れたり、メンタルコーチを付けたりもしたんです。東京オリンピックの場合は、スピード、ボルダリング、リードと3種目があったので、それぞれの種目のコーチを付けて練習する時間も増えました。
――少し話を戻しますが、16歳の時からジャパンカップを9連覇していますね。その要因は?
自分のなかでは9連覇できてよかったなというより、10連覇がかかった大会で初めて国内で負けてしまったことへの悔しさのほうが鮮明に覚えているので、なぜ勝てていたかというのは考えたことがないんです。
――負けた時の方が強烈な体験だったと。
自分も進化していますが、時代も進化していくので、そういったところも考えて、もっと新しいものを取り入れなければいけないと思いました。それが2015年頃です。その後に2018年くらいから成績も出せるようになって、2019年に八王子で行なわれた世界選手権で、日本人で最初のオリンピック内定を決めることができました。その頃には自分の気持ちや身体の状態もすごく復活してきて、オリンピックを自分の集大成と位置付けて、そこで引退しようと心に決めました。ただ、オリンピックを目指すのを迷っていた時期もあったんです。