産駒が制したビッグレースは桜花賞から菊花賞、天皇賞(当時は春秋ともに3200m)までと距離の幅は広いが、その特徴は「スピードの豊かさ」。その代表格がトウショウボーイとサクラユタカオーの牡馬2頭。トウショウボーイは皐月賞で2着を5馬身もちぎってレコード勝ちしたことなどから、「天馬」の異名を得た。
また、サクラユタカオーは本格化を果たした4歳秋、毎日王冠と天皇賞を連続でレコード勝ちし、しかも両レースとも2着に0秒4もの差をつけての快勝だったことから、生産地では一気に種牡馬としての評価が高まった。そして現役引退後、この快足中距離馬が期待に応えて送り出したのがサクラバクシンオーだった。
母のサクラハゴロモ(父ノーザンテースト)は社台ファームの生産馬。怪我の影響があって2勝を挙げるにとどまったが、オーナーの全演植(登録名は㈱さくらコマース)は引退後も自らの繁殖牝馬として引き取りたかったが、牧場側は社台ファーム固有の牝系に連なる繁殖として手元に残したいという意思が強く、その申し入れは拒否された。しかしその代わり、牧場から提示された「初仔を譲る」という条件を受け入れ、自らが所有したサクラユタカオーを父に持つ牡駒を譲り受けることになる。これがのちのサクラバクシンオーだったのだから、縁は異なものである。
サクラバクシンオーは、父母はもちろんのこと、”サクラ”の馬たちを管理するメインステーブルとして知られた境勝太郎厩舎へ入る。手綱をとるのも”サクラ”の主戦騎手、小島太と決まっていた。それゆえ、結果的に引退まで全戦に騎乗することになる。厩舎ゆかりのサクラユタカオー産駒であり、なおかつ雄大な馬体を持ち合わせた彼はマスコミの耳目を集め、「将来のクラシック候補」としてデビュー前からたびたび報道されたほどだった。
しかしサクラバクシンオーの距離適性は、クラシックディスタンスではなく、スプリント戦に向いていた。デビューからの3戦を1着(ダート1200m)、2着(芝1600m)、1着(芝1200m)として臨んだ3戦目。皐月賞を目指して出走させたスプリングステークス(GⅡ、芝1800m)は道悪の影響もあったが12着に大敗。これで距離延長に見切りをつけて参戦したクリスタルカップ(GⅢ、芝1200m)は、2着に3馬身半(0秒6)差を付けて悠々と逃げ切り勝ちを収めた。
興味深いのは、サクラバクシンオーの距離の壁は驚くほどに明確なことだった。1200~1400mではトップオブトップ。しかし1600mとなるとやや長く、終いが甘くなって勝ち切れなかった。デビューした3歳にあらわれたこの特質は、スプリント戦での強さが増したこと以外、現役を引退するまで変わることは無かった。
また、サクラユタカオーは本格化を果たした4歳秋、毎日王冠と天皇賞を連続でレコード勝ちし、しかも両レースとも2着に0秒4もの差をつけての快勝だったことから、生産地では一気に種牡馬としての評価が高まった。そして現役引退後、この快足中距離馬が期待に応えて送り出したのがサクラバクシンオーだった。
母のサクラハゴロモ(父ノーザンテースト)は社台ファームの生産馬。怪我の影響があって2勝を挙げるにとどまったが、オーナーの全演植(登録名は㈱さくらコマース)は引退後も自らの繁殖牝馬として引き取りたかったが、牧場側は社台ファーム固有の牝系に連なる繁殖として手元に残したいという意思が強く、その申し入れは拒否された。しかしその代わり、牧場から提示された「初仔を譲る」という条件を受け入れ、自らが所有したサクラユタカオーを父に持つ牡駒を譲り受けることになる。これがのちのサクラバクシンオーだったのだから、縁は異なものである。
サクラバクシンオーは、父母はもちろんのこと、”サクラ”の馬たちを管理するメインステーブルとして知られた境勝太郎厩舎へ入る。手綱をとるのも”サクラ”の主戦騎手、小島太と決まっていた。それゆえ、結果的に引退まで全戦に騎乗することになる。厩舎ゆかりのサクラユタカオー産駒であり、なおかつ雄大な馬体を持ち合わせた彼はマスコミの耳目を集め、「将来のクラシック候補」としてデビュー前からたびたび報道されたほどだった。
しかしサクラバクシンオーの距離適性は、クラシックディスタンスではなく、スプリント戦に向いていた。デビューからの3戦を1着(ダート1200m)、2着(芝1600m)、1着(芝1200m)として臨んだ3戦目。皐月賞を目指して出走させたスプリングステークス(GⅡ、芝1800m)は道悪の影響もあったが12着に大敗。これで距離延長に見切りをつけて参戦したクリスタルカップ(GⅢ、芝1200m)は、2着に3馬身半(0秒6)差を付けて悠々と逃げ切り勝ちを収めた。
興味深いのは、サクラバクシンオーの距離の壁は驚くほどに明確なことだった。1200~1400mではトップオブトップ。しかし1600mとなるとやや長く、終いが甘くなって勝ち切れなかった。デビューした3歳にあらわれたこの特質は、スプリント戦での強さが増したこと以外、現役を引退するまで変わることは無かった。