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バスケW杯

創設から約50年、NBAに次ぐ歴史を持つフィリピンのプロリーグPBA。今年のW杯開催国が“バスケ王国”になった理由<DUNKSHOOT>

出野哲也

2023.05.30

キーファー(左上)とサーディ(右上)のラベナ兄弟やパークスジュニア(左下)など、Bリーグでプレーするフィリピン人選手は年々増加している。(C)B.LEAGUE

キーファー(左上)とサーディ(右上)のラベナ兄弟やパークスジュニア(左下)など、Bリーグでプレーするフィリピン人選手は年々増加している。(C)B.LEAGUE

 キーファー(滋賀レイクス)とサーディ(三遠ネオフェニックス)のラベナ兄弟、レイ・パークスジュニア(名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)、カイ・ソット(広島ドラゴンフライズ)、カール・タマヨ(琉球ゴールデンキングス)――Bリーグで活躍しているこれらの外国人選手は、いずれもフィリピン出身だ。

 来たる8月に日本、インドネシアとともにワールドカップが開催される同国は、世界で最もバスケットボール熱の高い国。公園には必ずバスケットボールのコートがあり、どの街角にもリングが据え付けてあって、子どもたちがストリートバスケットに勤しんでいる光景が日常なのだ。

 歴史的にバスケットが盛んではなかったアジア地域で、なぜフィリピンだけがこれほどのバスケ王国になったのか。それは、かつてアメリカの植民地だったという至極単純な理由だ(サッカーが今に至るまで、あまり人気がないのも同じ理由)。統治国がスペインからアメリカへ移ったのが1898年。その7年前に冬季のレクリエーションとして考案された新しいスポーツは、冬とは無縁である熱帯の島国に普及していった。

 ただしその頃は、アメリカ発祥のスポーツで圧倒的に人気だったのは野球。フィリピンでも盛んにプレーされ、東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)の初代外国人選手であるアチラノ・リベラもフィリピン人だった。
 
 しかし、やがてバスケットの人気が野球を凌駕するようになる。常夏の国では、炎天下のグラウンドで何時間も動き回るより、日差しを遮る屋根の下でできるスポーツが好まれたのは自然の成り行きだった。

 20世紀当初、誕生して間もないバスケットボールはまずアメリカの影響下にある地域で普及し始めた。フィリピンはそうした「先行者利益」を享受でき、1936年のベルリン五輪で初めてバスケットボールが採用された際も、アジアからは中国、日本とともに出場。

 4勝1敗(1敗はアメリカ)と上々の成果を収めたが、組み合わせの関係でメダルは取れず5位だった。その後も56年まで5大会連続出場、64年の東京五輪では出場を逃すも、68、72年も出場。この間48年を除き、すべてアジアの国ではトップの成績を収めた。

 ワールドカップも同様で、54年のブラジル大会ではアメリカ、ブラジルに次ぐ3位に入った。これは今もなお、ワールドカップにおけるアジア勢による唯一のメダルである。同大会で平均16.4点をあげ、大会ベスト5にも選ばれ国民的英雄となったのがカルロス・ロイサガ。インサイド、アウトサイドの両方で自在に得点でき、パスも得意な万能センターは、フィリピン・バスケットボール史上最高の選手と多くの人に認められている。
 
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