集団の中にあの男を見つけることはできなかった。
数多いるキャンプ招待選手の中での彼は独立独歩、己の道を歩いていた。シンシナティ・レッズがスプリング・トレーニングを張るアリゾナ州グッドイヤーで田澤純一を見かけたのは、コロナ禍の影響で解雇通告を受ける前の、3月初旬の頃だった。
野手の練習を見ていると、室内練習場とサブグラウンドをつなぐ通路に田澤が一人で通りかかった。なじみの現地記者たちと会話する様子は、さすがアメリカに来て12年も経つ投手の振る舞いだった。
この取材を始めようと決意した時、どうしても話を聞かなければいけないと強く思ったのが、この田澤だった。
横浜商大高を経て新日本石油(現JX- ENEOS)に進んだ田澤は、2007年時点からドラフトの目玉として注目されていた。その年こそチームを都市対抗優勝に導くために残留したが、翌年、ドラフトを前にしてメジャー挑戦を表明。同時にNPBの12球団宛にドラフト指名見送りを求める文書を送付。12月になってレッドソックスと契約した。 それまでも、日本の球団を経ずにアメリカに渡ったケースはあったが、田澤のようなアマチュアのトップ選手がアメリカの球団と契約を交わすのは初めてのことだった。
この事態を前にNPBは動いた。田澤のようなケースを今後なくすため、田澤を含めた海外挑戦者を罰する規則を決めたのだ。いつしか"田澤ルール"と呼ばれるようになったこの規定は、海外球団を退団した、NPB球団には即復帰できないという、いわば海外挑戦者を裏切り者扱いするようなものだった。
海外挑戦を否定するルール。グローバル化の時代にはまったくそぐわないものだが、それがまかり通ってしまうことに球界の体質の古さがある。プロ野球選手会はホームページに「NPBが、アジア最高リーグとして、メジャーリーグと対等、あるいはそれ以上のブランド力とビジネス規模を有するリーグになることを目指すべきであり、日本のアマチュア選手にとって、メジャーよりも魅力のあるリーグになることが、最も重要であると考えています」という声明を出しているが、田澤ルールの精神は明らかにこれに逆行する。
数多いるキャンプ招待選手の中での彼は独立独歩、己の道を歩いていた。シンシナティ・レッズがスプリング・トレーニングを張るアリゾナ州グッドイヤーで田澤純一を見かけたのは、コロナ禍の影響で解雇通告を受ける前の、3月初旬の頃だった。
野手の練習を見ていると、室内練習場とサブグラウンドをつなぐ通路に田澤が一人で通りかかった。なじみの現地記者たちと会話する様子は、さすがアメリカに来て12年も経つ投手の振る舞いだった。
この取材を始めようと決意した時、どうしても話を聞かなければいけないと強く思ったのが、この田澤だった。
横浜商大高を経て新日本石油(現JX- ENEOS)に進んだ田澤は、2007年時点からドラフトの目玉として注目されていた。その年こそチームを都市対抗優勝に導くために残留したが、翌年、ドラフトを前にしてメジャー挑戦を表明。同時にNPBの12球団宛にドラフト指名見送りを求める文書を送付。12月になってレッドソックスと契約した。 それまでも、日本の球団を経ずにアメリカに渡ったケースはあったが、田澤のようなアマチュアのトップ選手がアメリカの球団と契約を交わすのは初めてのことだった。
この事態を前にNPBは動いた。田澤のようなケースを今後なくすため、田澤を含めた海外挑戦者を罰する規則を決めたのだ。いつしか"田澤ルール"と呼ばれるようになったこの規定は、海外球団を退団した、NPB球団には即復帰できないという、いわば海外挑戦者を裏切り者扱いするようなものだった。
海外挑戦を否定するルール。グローバル化の時代にはまったくそぐわないものだが、それがまかり通ってしまうことに球界の体質の古さがある。プロ野球選手会はホームページに「NPBが、アジア最高リーグとして、メジャーリーグと対等、あるいはそれ以上のブランド力とビジネス規模を有するリーグになることを目指すべきであり、日本のアマチュア選手にとって、メジャーよりも魅力のあるリーグになることが、最も重要であると考えています」という声明を出しているが、田澤ルールの精神は明らかにこれに逆行する。