コロナ禍での異例の戦いとなった昨年の大学野球。神宮の森で強さを見せつけたのは"陸の王者"慶應大学だった。
春秋の東京六大学を連覇。春の大学選手権では34年ぶりの日本一を掴みとった。そして大学四冠に王手を掛けて臨んだ秋の明治神宮大会は、決勝戦で中央学院大に敗れて惜しくも偉業を逃したが、地方も含めた各大学の実力が拮抗する今の時代に、この"3.9冠"は賞賛に値する。
JR東日本を社会人日本一に導いた名将・堀井哲也監督に率いられ、大阪桐蔭時代に甲子園優勝経験を持つ福井章吾主将を中心に、プロ入りした主砲・正木智也(ソフトバンク)、俊足の渡部遼人(オリックス)の両外野手らタレントが揃ったチームには、いつも目立たない場所にいて、屋台骨のような働きをしている人物がいた。助監督を務めた竹内大助だ。
所属するトヨタ自動車からの出向という形で就任したのは、2019年2月。昨秋のシーズンで3年の任期を終え、今年1月1日付けで社業に復帰した竹内。「助監督」という、ちょっとわかりにくい職務と、在任中はあまり語られてこなかったその人物像を紐解いていきたい。
―――◆―――◆―――◆―――
「結果は勝負事なので仕方ないです。現場でやっている身としては、やっぱり勝って終わらせてあげたかったんですけどね。とはいえ、最後まで良い試合をしてくれた学生たちには感謝していますし、誇らしく、尊敬しています」
明治神宮大会決勝戦後、竹内は珍しく饒舌に思いの丈を口にした。
勝っても負けても、助監督としての最後の試合。スタンドの最前列には、妻のまりえの姿があった。普段はタレントの「上田まりえ」として、プライベートもままならない仕事をする身。だがこの日は人目も憚ることなく、一人のファンとして、試合前から目を潤ませながら選手たちに声援を送り続けていた。そんな愛妻に、竹内はてらうこともなくグラウンドから手を振り返し、「ありがとう」と声を掛けた。
ちょうど1年前の優勝を賭けた早慶戦。9回二死までリードしながら逆転ホームランを浴び、手にしかけた勝利も優勝も逃した。そこからスタートしたチーム。監督やOB、関係者から、いつも言われていた言葉がある。
「強いチームである前に、"いいチーム"でなくてはならない」
助監督という立場で、いつも、"いいチーム"を作るために何をするべきかを考えてきたつもりだ。「そういう意味では、最後の年に一定の成果は出ていた気がします」と胸を張った。
後日、行なわれたチームのシーズン納会。挨拶に立った竹内は、「今シーズン限りで退任となります。3年間、お世話になりました」と、短い言葉で選手や出席者に正式に報告している。まるで業務連絡のような淡々とした口調。
「それはもう、あえてそうしました。総括的なお話は監督がされることですし、僕が多くを語る必要はない。"助監督"という僕の立場では、それでいいんだと思います。もともとチームというのは、監督と選手がいたら成立するものですから」
任期が残る年末まで連日グラウンドに出向き、選手たちのオフの自主練習を手伝うと、竹内は静かに慶大野球部を離れた。
そもそも、「助監督」とは何者なのか?
もとは映画制作などの現場で、文字通り監督を助け、各部署の橋渡し的な仕事を行なう者の役職名だった。それがプロ野球で、巨人の藤田元司監督時代(第一期・1981-1984年)、現役を引退した王貞治(現ソフトバンク球団会長)がその職務に就いたことから、野球界のみならず、一般にも知られるようになった。
大学野球の場合、ほとんどのチームに監督の下でアシスタント的な役割を担うスタッフ(指導者)がいる。それを「コーチ」と呼ぶか「助監督」とするかはチームによって異なる。
東京六大学では、慶大以外にも助監督を置いているチームが多い。一般的な大学野球のコーチ職と比較すると、六大学は年齢が高く、野球人としても社会人としてもキャリアのある人物が着任するケースが多いため、礼儀として「コーチよりも格上」という響きを感じる「助監督」の名称を用いているという説もある。だとすると、まだ三十代になったばかりの竹内は、「助監督」としては新しいモデルなのかもしれない。
春秋の東京六大学を連覇。春の大学選手権では34年ぶりの日本一を掴みとった。そして大学四冠に王手を掛けて臨んだ秋の明治神宮大会は、決勝戦で中央学院大に敗れて惜しくも偉業を逃したが、地方も含めた各大学の実力が拮抗する今の時代に、この"3.9冠"は賞賛に値する。
JR東日本を社会人日本一に導いた名将・堀井哲也監督に率いられ、大阪桐蔭時代に甲子園優勝経験を持つ福井章吾主将を中心に、プロ入りした主砲・正木智也(ソフトバンク)、俊足の渡部遼人(オリックス)の両外野手らタレントが揃ったチームには、いつも目立たない場所にいて、屋台骨のような働きをしている人物がいた。助監督を務めた竹内大助だ。
所属するトヨタ自動車からの出向という形で就任したのは、2019年2月。昨秋のシーズンで3年の任期を終え、今年1月1日付けで社業に復帰した竹内。「助監督」という、ちょっとわかりにくい職務と、在任中はあまり語られてこなかったその人物像を紐解いていきたい。
―――◆―――◆―――◆―――
「結果は勝負事なので仕方ないです。現場でやっている身としては、やっぱり勝って終わらせてあげたかったんですけどね。とはいえ、最後まで良い試合をしてくれた学生たちには感謝していますし、誇らしく、尊敬しています」
明治神宮大会決勝戦後、竹内は珍しく饒舌に思いの丈を口にした。
勝っても負けても、助監督としての最後の試合。スタンドの最前列には、妻のまりえの姿があった。普段はタレントの「上田まりえ」として、プライベートもままならない仕事をする身。だがこの日は人目も憚ることなく、一人のファンとして、試合前から目を潤ませながら選手たちに声援を送り続けていた。そんな愛妻に、竹内はてらうこともなくグラウンドから手を振り返し、「ありがとう」と声を掛けた。
ちょうど1年前の優勝を賭けた早慶戦。9回二死までリードしながら逆転ホームランを浴び、手にしかけた勝利も優勝も逃した。そこからスタートしたチーム。監督やOB、関係者から、いつも言われていた言葉がある。
「強いチームである前に、"いいチーム"でなくてはならない」
助監督という立場で、いつも、"いいチーム"を作るために何をするべきかを考えてきたつもりだ。「そういう意味では、最後の年に一定の成果は出ていた気がします」と胸を張った。
後日、行なわれたチームのシーズン納会。挨拶に立った竹内は、「今シーズン限りで退任となります。3年間、お世話になりました」と、短い言葉で選手や出席者に正式に報告している。まるで業務連絡のような淡々とした口調。
「それはもう、あえてそうしました。総括的なお話は監督がされることですし、僕が多くを語る必要はない。"助監督"という僕の立場では、それでいいんだと思います。もともとチームというのは、監督と選手がいたら成立するものですから」
任期が残る年末まで連日グラウンドに出向き、選手たちのオフの自主練習を手伝うと、竹内は静かに慶大野球部を離れた。
そもそも、「助監督」とは何者なのか?
もとは映画制作などの現場で、文字通り監督を助け、各部署の橋渡し的な仕事を行なう者の役職名だった。それがプロ野球で、巨人の藤田元司監督時代(第一期・1981-1984年)、現役を引退した王貞治(現ソフトバンク球団会長)がその職務に就いたことから、野球界のみならず、一般にも知られるようになった。
大学野球の場合、ほとんどのチームに監督の下でアシスタント的な役割を担うスタッフ(指導者)がいる。それを「コーチ」と呼ぶか「助監督」とするかはチームによって異なる。
東京六大学では、慶大以外にも助監督を置いているチームが多い。一般的な大学野球のコーチ職と比較すると、六大学は年齢が高く、野球人としても社会人としてもキャリアのある人物が着任するケースが多いため、礼儀として「コーチよりも格上」という響きを感じる「助監督」の名称を用いているという説もある。だとすると、まだ三十代になったばかりの竹内は、「助監督」としては新しいモデルなのかもしれない。