現役時代はレイズなどで内野手として活躍した元日本人メジャーリーガーの岩村明憲は現在、独立リーグ、福島レッドホープスの監督を務めている。そんな岩村の“監督像”に大きな影響を与えているのが、レイズ時代に仕えた名将ジョー・マッドンだ。
オープナーを最初に採用した球団として知られるレイズは、データに裏付けられた先進的な戦術で勝ち上がっていくチーム。あの手この手で勝利をもぎ取っていく“伝統”の礎を築いたのが、2007~14年まで監督を務めたマッドンだった。
16年にはカブスを世界一に輝き、今季途中まで大谷翔平が所属するエンジェルスで采配を振るっていたマッドンは、奇策を好むことでも知られる。今季も1死満塁で申告敬遠して話題になったが、この策を取ったのは今回が初めてではない。08年にも同じ作戦を採り、ファンを驚かせている。
マッドンの下でプレーしていた岩村は、名将との日々をこう振り返っている。
「奇抜な作戦はありました。でも、その根底にあるのはセオリーでしたね。スモール・ベースボールも大事にしていました。ただ、セオリーを基本としつつも、特別なことをしないと相手を抑えられないって思ったときには奇策をします。
1死満塁からの敬遠は僕の時代にもありましたけど、1点取られるのは想定内。今年はピッチャーが動揺して5失点していましたけど、それはピッチャーがボロなだけであって、常に先にあるのは勝利のためでした」
現在、BCリーグの福島レッドホープスを率いる岩村は、マッドンとの出会いが指揮官としての自分に大きな影響を与えていると語る。とりわけリーダーに大切な要素として感じたのはコミュニケーション能力だ。
レイズに入団して間もなく、マッドンとの食事の席で「いろんなポジションを守ってもらうことになる」と期待を寄せられた。その時、岩村は本気で「この指揮官のために最善を尽くそう」と誓った。
そんなメジャー1年目、チームは苦しいシーズンを送り、借金が30にも膨れ上がった。選手たちの団結や奮起を促そうと、岩村はマッドンのいる監督室に赴いてミーティングを要望した。
「ジョーは確かに話は好きなんですけど、基本的に全体ミーティングは必要ないと思っていました。それよりも、個人個人のコミュニケーションを取るようにしていましたね。僕ともよく話をしてくれました。他愛もないことを話すのも大事にしていましたし、そういう勝つための雰囲気作りっていうのにすごく徹していたなと思います」
これは、日本ではあり得ない経験だった。監督の決定が絶対であることは共通しているが、指揮官と選手が対話する回数は明らかにアメリカの方が多かった。日本の場合、監督が往年のスーパースターであることも多少なりとも影響があるだろう。「(監督から)話しかけてもらった時は普通に話すことはできますけど、自分からっていうのは日本ではなかなかできることではなかった。大きな違いを感じました」と岩村は言う。
文化の違いとも言えるが、この対話こそ、選手たちを気持ち良くプレーさせる大きなファクターになっていることもまた事実だった。
当時のレイズ(07年までは「デビルレイズ」)は弱かったが、BJ・アップトンやスコット・キャズミアーなど、魅力あふれる若手が徐々に台頭しようとしている時期。後にスーパースターになるエバン・ロンゴリアはマイナーでトップ・プロスペクトとして期待を集めるなど、チームの将来性は抜群だった。
オープナーを最初に採用した球団として知られるレイズは、データに裏付けられた先進的な戦術で勝ち上がっていくチーム。あの手この手で勝利をもぎ取っていく“伝統”の礎を築いたのが、2007~14年まで監督を務めたマッドンだった。
16年にはカブスを世界一に輝き、今季途中まで大谷翔平が所属するエンジェルスで采配を振るっていたマッドンは、奇策を好むことでも知られる。今季も1死満塁で申告敬遠して話題になったが、この策を取ったのは今回が初めてではない。08年にも同じ作戦を採り、ファンを驚かせている。
マッドンの下でプレーしていた岩村は、名将との日々をこう振り返っている。
「奇抜な作戦はありました。でも、その根底にあるのはセオリーでしたね。スモール・ベースボールも大事にしていました。ただ、セオリーを基本としつつも、特別なことをしないと相手を抑えられないって思ったときには奇策をします。
1死満塁からの敬遠は僕の時代にもありましたけど、1点取られるのは想定内。今年はピッチャーが動揺して5失点していましたけど、それはピッチャーがボロなだけであって、常に先にあるのは勝利のためでした」
現在、BCリーグの福島レッドホープスを率いる岩村は、マッドンとの出会いが指揮官としての自分に大きな影響を与えていると語る。とりわけリーダーに大切な要素として感じたのはコミュニケーション能力だ。
レイズに入団して間もなく、マッドンとの食事の席で「いろんなポジションを守ってもらうことになる」と期待を寄せられた。その時、岩村は本気で「この指揮官のために最善を尽くそう」と誓った。
そんなメジャー1年目、チームは苦しいシーズンを送り、借金が30にも膨れ上がった。選手たちの団結や奮起を促そうと、岩村はマッドンのいる監督室に赴いてミーティングを要望した。
「ジョーは確かに話は好きなんですけど、基本的に全体ミーティングは必要ないと思っていました。それよりも、個人個人のコミュニケーションを取るようにしていましたね。僕ともよく話をしてくれました。他愛もないことを話すのも大事にしていましたし、そういう勝つための雰囲気作りっていうのにすごく徹していたなと思います」
これは、日本ではあり得ない経験だった。監督の決定が絶対であることは共通しているが、指揮官と選手が対話する回数は明らかにアメリカの方が多かった。日本の場合、監督が往年のスーパースターであることも多少なりとも影響があるだろう。「(監督から)話しかけてもらった時は普通に話すことはできますけど、自分からっていうのは日本ではなかなかできることではなかった。大きな違いを感じました」と岩村は言う。
文化の違いとも言えるが、この対話こそ、選手たちを気持ち良くプレーさせる大きなファクターになっていることもまた事実だった。
当時のレイズ(07年までは「デビルレイズ」)は弱かったが、BJ・アップトンやスコット・キャズミアーなど、魅力あふれる若手が徐々に台頭しようとしている時期。後にスーパースターになるエバン・ロンゴリアはマイナーでトップ・プロスペクトとして期待を集めるなど、チームの将来性は抜群だった。