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メジャー382本塁打が日本ではまさかの0本...“ダメ外人”と呼ばれたフランク・ハワードは心優しき巨人だった<SLUGGER>

出野哲也

2023.11.03

当時としては規格外の巨体から豪快なアーチを量産したハワード。人格者としても知られていた。(C)Getty Images

当時としては規格外の巨体から豪快なアーチを量産したハワード。人格者としても知られていた。(C)Getty Images

 10月30日に87歳で亡くなったフランク・ハワードは、日本でも有名な選手だった。それはメジャー通算382ホーマー、2度の本塁打王に輝いた強打者だったからではなく、1974年に太平洋クラブライオンズ(現西武)に入団しながら、1試合しか出ず帰国・退団してしまったのが理由である。それでいて年俸は1年分をしっかり支払わせたため、ハワードを「給料泥棒」「日本のプロ野球をなめていた最悪の選手」などと罵る声も少なくない。

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 確かにジョー・ペピトーンやケビン・ミッチェル、ブラッド・ペニーのように、そうした悪名を負っても仕方のない者は何人もいた。しかしながら、ハワードをそうした連中と一緒にするのは間違いだ。期待外れだったのは否定しようがないけれども、彼は本当にベストを尽くすつもりで来日したし、本国アメリカでは「ジェントル・ジャイアント――優しき巨人」として、多くの尊敬を集めていたのだ。

 ハワードはバスケットボールで有名になっていたかもしれなかった。強豪オハイオ州立大学でフォワードとしてプレーし、1956-57シーズンは平均20.1点、15.3リバウンドの好成績。1試合32リバウンドのチーム記録は今も破られておらず、同大学の殿堂メンバーにもなっている。58年のNBAドラフトでは3巡目、全体21位でフィラデルフィア(現ゴールデンステイト)・ウォリアーズから指名された。

 だが野球選手になりたかったハワードは、58年にドジャースと契約。レギュラーになった60年に23本塁打で新人王に輝き、62年には39本塁打、111打点を記録した。
 彼の魅力は何と言っても身長201cm、体重115kg(当時のメジャー最重量)の巨体が生み出すパワーにあった。朝からステーキ2枚と卵8個を平らげていたそうで「バントをしてもフェンスを越えるだろう」と言われたほど。殿堂入りの名投手ロビン・ロバーツから打ったメジャー初アーチは、左翼スタンドの看板を直撃し「看板が落ちてくるんじゃないかと思った」と左翼手は恐れをなした。

 ピッツバーグでは推定560フィート(171m)の超特大弾を打ったとされる。今季、大谷翔平が放ったメジャー最長距離の一発が493フィート(150m)だったのだから、本当にこれほど飛んだかどうかは怪しいが、とにかく凄い当たりだったのは間違いない。63年のワールドシリーズ第4戦では、片手一本でドジャー・スタジアムの二階席へ運んだ。

 打球の強烈さに関しては、こんなエピソードもある。ホワイトソックスとの試合で、トミー・ジョンの投じたボールを真っ直ぐ打ち返し、ジョンは思わず頭を引っ込めた。センターが前進して捕球しようとした低い弾道のライナーは、そのまま伸びて観客席へ突き刺さった。チームメイトのフレッド・バレンタイン(のち阪神)曰く「ゴルフの2番アイアンで打ったような打球だった」。誇張に思えるかもしれないが、類似のエピソードは他にもいくつもある。

 65年にワシントン・セネタースへトレードされ、68年は5月に6試合で10本塁打の離れ業を演じ、44本で初のタイトル。70年は44本、126打点の二冠王となった。72年にセネタースはテキサスへ移転しレンジャーズと改称。「私の野球人生で一番の思い出は、ワシントンで打った最後のホームラン」と言っていたくらい旧本拠を愛していたハワードは、テキサスに行くのは気乗りしなかった。それでも、新本拠地球場アーリントン・スタジアム第1号を打ったのもハワード。エンジェルスのクライド・ライト(のち巨人)からセンター後方へ打ち込んだ。
 
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