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大学野球

チームを支える“なんでも屋”。雑務の傍ら打撃投手で200球を投げる日も。青学大の敏腕学生マネージャーの素顔【大学野球の裏側コラム】

矢崎良一

2022.11.30

選手として厳しい指導に食らいついた高校時代。佃にとって3年間の経験はマネージャーとなっても生きている。写真:矢崎良一

選手として厳しい指導に食らいついた高校時代。佃にとって3年間の経験はマネージャーとなっても生きている。写真:矢崎良一

 秋のリーグ戦、青学大は優勝に「あと1勝」と王手を懸けながら、最終カードの駒大戦で痛恨の逆転サヨナラ負け。開幕戦に連勝で勝ち点を取っていた国学大に土壇場で逆転優勝を許した。試合後、「やりきった」とサバサバしていた部員もいるなかで、佃は「やっぱりウチは弱かったということ。目を背けてはいけないと思います」と厳しく指摘した。

 二部リーグにいた1年生の秋、今回と同じように勝てば優勝の最終戦に敗れ、直接対決ですでに勝ち点を取っていた拓大に優勝をさらわれていた。「その時からチームが変わりきれなかった。自分たちの取り組みでは足りなかったということです。僕自身も、ベンチの雰囲気が落ちている時に、自分の声で盛り上げるような力が足りませんでした」と言う。

 こうした野球への厳しい向き合い方は、安藤監督から植えつけられたものだ。佃が青山学院高等部に入学した時、安藤は高等部の野球部で監督を務めていた。そして佃たちの代の3年生の夏の大会を最後に退任し、大学に入学した翌春から大学の監督に就任している。合計7年間の師弟関係。マネージャーとしての入部が決まったのも安藤の口添えだった。

 高等部時代、その指導はまさにスパルタ方式。練習での小さなミスも決して見逃すことなく、グラウンドには容赦なく怒声が響いた。それでも佃は当時をこう振り返る。

「ワァーって怒られたら、その時はビビったり、ヘコんだりしますけど、それよりも監督の求めている野球について行くことが大変で。ただただ毎日必死の3年間でした」
 
 中学までは投手だったが、高校入学後、「お前、内野はできるか?」と聞かれ、そのまま二遊間の守備に就いた。練習はひたすら実戦形式で、一つ一つのプレーに状況判断を求められた。

 強豪大学の附属校とはいえ高等部にはスポーツ推薦などはなく、受験の難易度も高いため、中学時代に実績のある選手はなかなか入学してこない。なかには初心者と変わらないような選手もいた。それでも妥協せず、ひたすら選手を鍛え上げ強豪校に伍するチームを作るというのが当時の安藤のイズムだった。その厳しさは野球だけでなく、日常の生活態度や、グラウンドを訪れる来客への対応に至るまで徹底的に叩き込まれた。

 あまりの厳しさについて行けず退部する部員もいた。同じグラウンドで練習する中等部の野球部員は、入部すらしてこなくなった。佃の学年はわずか5人。1年生の夏の大会を終え3年生が引退すると、新チームの部員数は2年生と併せて9人になった。ケガ人が出たら試合が出来なくなるが、練習が緩むことはなかった。

 9人で秋の大会を乗り切り、翌春、新入部員が入ってきた。一人でも部員数を確保したい。それでも佃は後輩たちに同じ厳しさを求めた。「それで9人揃わなくなっても、自分たちが目指す野球が下の学年に伝わらないことのほうがイヤだったんで」と振り返る。
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