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大学野球

“投げる=酷使”に抱く違和感。駒大の福山優希が、時代遅れと言われても連投する理由「身体を張るという考えではやってない」

矢崎良一

2021.10.01

 福山はSNSなどで、「酷使」「登板過多」といった書き込みを見つけると、「またこんなこと書かれてますよ」と嫌そうな顔をするという。しかし石村は、「そんなの気にすることないよ」と宥める。

「だって、こういうことをするためにここに来たんでしょ? 今、楽しんでるんでしょ? 自分が楽しめているということが一番大事だよ」

 そして石村は、トレーナーの立場でこう言った。

「(福山は)鉄人でも不死身でもないと思います。それはチーム全体で作り上げているものの結果ではないでしょうか」

 近年は、とにかくたくさん投げさせてはいけないという風潮がある。選手の身体を守ろうという意識が強くなりすぎて、投げさせることが、イコール「酷使」と批判される。そこには多少の違和感を感じてしまう。

 もともと、彼らは投げることが好きだから、投手をしているのではないのだろうか? また、ここで使われる「酷使」という言葉は、あまりにも総体的だ。プロに行きたいという選手と、高校野球まででいいと思っている選手では、意味あいがまったく違ってくる。
 
 後者なら、それで万が一故障しても、日常生活に支障をきたすほどでなければ、本人が納得するまで全力で楽しませてあげたらいいのではないかとも思う。

「僕には先があるから無理はしません」という考え方も否定は出来ない。いくら自己犠牲といっても、「チームのために怪我をしていても投げろ」と言うつもりもない。ただ、本人がそう考えていても、「ここで頑張らなければ先はないんだよ」という立場の選手もいる。

 野球人口のピラミッドは、ある高さに行くと急に細くなる歪な三角錐だ。高校から大学に進む段階までは、本人がやりたいと希望すれば、かなりの割合で野球を続けることが出来る。だが、大学から先は極端に間口が狭くなる。プロ12球団と、チーム数が激減した社会人野球に奨めるのは本当のエリートのみ。プロの育成や独立リーグを含めても、受け入れてくれる場所が少ないのだ。

 極論すれば、佐々木朗希(現千葉ロッテマリーンズ)なら、投げなくてもドラフト1位でプロに行ける。だが、普通の投手は、いくら「自分には将来があるから」と言っても、あくまで自己評価であって、それを裏付けるための結果がついてこなければ、相手(プロ、社会人)も、その選手の将来性だけを担保に獲得は出来ない。

 そういう微妙な立場にいる投手は、仮に故障のリスクを抱えた状態であっても、怪我で投げられなくなるのか、投げる場所を得られずに野球を終わるかという、究極の二者択一を迫られるのだ。
 
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