いよいよ開催まであとわずかとなった東京五輪。本連載では、オリンピックでの活躍が期待される各競技の注目選手の生い立ちや夢舞台への想いに迫る。
今回は、昨年のワールドカップに日本代表の主力として出場した、宇都宮ブレックスの比江島慎が登場。
彼の名を一躍全国に知らしめたのは、京都の洛南高時代。ウインターカップ3連覇をはじめ華々しい活躍で、名実ともに日本のトッププレーヤーに上り詰めた。そんな現在の彼を作った原点を振り返ってもらうとともに、躍進著しい日本バスケ界を背負って迎える東京五輪への想いを語ってもらった。
――まずは地元の福岡を離れて、洛南高校(京都)に進学した経緯を教えてください。
もちろん、地元の福岡第一や大濠も選択肢にはあったんですけど、様々な理由を考慮した結果、洛南に行くことを決めました。全国区の高校でやれる自信はあったので、優勝を狙えるチームに進学したいというのがありました。また、留学生や個人技に頼りすぎないチームにも魅力を感じていました。そして、やるからには1年生から試合に出たいなっていう正直な思いもあって…。そう考えると、大濠高校というのは本当に凄い選手たちが全国各地から来ますし、当然そういった情報は知っていたので、1年生から出るのは無理だなと。それで福岡からある程度近くて強豪の洛南に、という感じです。
――洛南ではすぐに試合に出られるという自信はありましたか?
チャンスがあるんじゃないかなとは思っていました。それに洛南はカッコいいイメージがあったので。
――地元を離れることに対して迷いはなかったですか?
まったくなかったです。
――高校は寮生活だったんですか?
親戚がいたので、そういったところもちょうどよかったです。
――高校時代はどのような生活を送っていましたか?
もうバスケしかしてないですね。朝練があって、授業を受けて、そこからまた練習して。それで1日が終わっちゃってましたね。
――洛南高校はスポーツコースみたいなものがあったんでしょうか?
普通科なんですけど、スポーツクラスみたいなのがあって、推薦組だとかそういった人たちが多かったですね。
――バスケ以外の行事やイベントでなにか思い出に残っているものはありますか?
学校が仏教系だったので、毎月21日だったか、講話を聞く行事があったのは覚えています。
――強豪校だと練習が厳しいイメージですが、部活のオフなどはあったんですか?
毎週月曜日は休みでした。だけど、どこかに遊びに出掛けるとかはなかったですね。
今回は、昨年のワールドカップに日本代表の主力として出場した、宇都宮ブレックスの比江島慎が登場。
彼の名を一躍全国に知らしめたのは、京都の洛南高時代。ウインターカップ3連覇をはじめ華々しい活躍で、名実ともに日本のトッププレーヤーに上り詰めた。そんな現在の彼を作った原点を振り返ってもらうとともに、躍進著しい日本バスケ界を背負って迎える東京五輪への想いを語ってもらった。
――まずは地元の福岡を離れて、洛南高校(京都)に進学した経緯を教えてください。
もちろん、地元の福岡第一や大濠も選択肢にはあったんですけど、様々な理由を考慮した結果、洛南に行くことを決めました。全国区の高校でやれる自信はあったので、優勝を狙えるチームに進学したいというのがありました。また、留学生や個人技に頼りすぎないチームにも魅力を感じていました。そして、やるからには1年生から試合に出たいなっていう正直な思いもあって…。そう考えると、大濠高校というのは本当に凄い選手たちが全国各地から来ますし、当然そういった情報は知っていたので、1年生から出るのは無理だなと。それで福岡からある程度近くて強豪の洛南に、という感じです。
――洛南ではすぐに試合に出られるという自信はありましたか?
チャンスがあるんじゃないかなとは思っていました。それに洛南はカッコいいイメージがあったので。
――地元を離れることに対して迷いはなかったですか?
まったくなかったです。
――高校は寮生活だったんですか?
親戚がいたので、そういったところもちょうどよかったです。
――高校時代はどのような生活を送っていましたか?
もうバスケしかしてないですね。朝練があって、授業を受けて、そこからまた練習して。それで1日が終わっちゃってましたね。
――洛南高校はスポーツコースみたいなものがあったんでしょうか?
普通科なんですけど、スポーツクラスみたいなのがあって、推薦組だとかそういった人たちが多かったですね。
――バスケ以外の行事やイベントでなにか思い出に残っているものはありますか?
学校が仏教系だったので、毎月21日だったか、講話を聞く行事があったのは覚えています。
――強豪校だと練習が厳しいイメージですが、部活のオフなどはあったんですか?
毎週月曜日は休みでした。だけど、どこかに遊びに出掛けるとかはなかったですね。