NBA

無名大学のマネージャーから“神様”の相棒に。スコッティ・ピッペンのサクセスストーリー【NBAレジェンド列伝・前編】

出野哲也

2020.05.08

ピッペンはジョーダンとともに、ブルズのすべての優勝に貢献。“史上最高のNo.2”と評された。(C)Getty Images

 シカゴ・ブルズが最後に優勝した1997-98シーズンの密着ドキュメンタリーシリーズ『ザ・ラストダンス』(全10話)の放映が始まり、マイケル・ジョーダンをはじめとした当時の優勝メンバーが改めて脚光を浴びている。"神様"ジョーダンの相棒を務め、全6回の優勝に貢献したスコッティ・ピッペンのキャリアを、前後編で振り返る。

■苦難の学生時代を乗り越え、神にも認められる万能戦士に

 マイケル・ジョーダンにあって、コビー・ブライアントとレブロン・ジェームズになかったもの——それは、「スコッティ・ピッペン」である。

 必要な時に自分に代わって得点でき、ディフェンスやリバウンドでも頼りになる。そんな相棒がいればコビーやレブロンの負担ははるかに軽かったはずだ。パウ・ガソルは好選手ではあったもののコビーに匹敵する存在ではなく、今のレブロンにはアンソニー・デイビスがいるけれども、まだコンビを組んで1年にも満たず"相棒"と呼べるほどの信頼関係はできていない。
 
 ジョーダンの全盛期に、ピッペンはまさしくそうした役割を演じていた。主役級の技量に恵まれながらも2番手の位置で最も光り輝いた、究極の最優秀助演俳優だった。

 ピッペンはアーカンソー州の貧しい家庭で、12人兄弟の末っ子として育った。同時代の他の子どもたちと同様、ジュリアス・アービングに憧れNBAを夢見ていたが、高校までは身長が185cmしかなく、体格も貧弱でまったく目立たない存在だった。

 そんなピッペンの元に強豪大学から誘いが来るはずもなく、高校のコーチの口利きで無名校のセントラルアーカンソー大に進んだが、選手ではなくマネージャーとしての入学だった。

 しかしピッペンはそこからの4年間、恐ろしいほどのスピードで成長を遂げる。身長が低い頃にポイントガードをしていたので、ボールハンドリングやプレーメーキングの才能が磨かれ、身長が伸びてからはフロントコートでプレーしているうちに、自然と何でもできるオールラウンドプレーヤーへ進化した。
 
NEXT
PAGE
NBAのスカウトからも注目を集め、ドラフト後のトレードでブルズに入団