1980年代後半、マイケル・ジョーダンとスコッティ・ピッペンは、"偉大な選手だがチームを勝たせられない男"と"無名校出身の優男"に過ぎなかった。2人が所属するシカゴ・ブルズも、思うように勝てずもがいていた。
個人としてすでに名声を得ていたジョーダンは、才能あふれるピッペンを徹底的に育て、2人は徐々に「師弟」から「史上最強のコンビ」へと成長していく。栄光に彩られた彼らのNBA人生だが、その道程は決して平坦なものではなかったのである。
■リーグ最高の選手の下に現われた、無名校出身の優男
マイケル・ジョーダンには、パートナーが必要だった。
1986-87シーズン、シカゴ・ブルズに入団して3年目、すでにジョーダンはスーパースターとなっていった。この年は平均37.1点というとてつもない数字を残し、初の得点王に輝く。前年のプレーオフ、ボストン・セルティックスとの試合では1試合で63得点を稼ぎ、ラリー・バードから「あれはジョーダンの姿をした神だ」との賛辞を贈られた。
だが、それがチームの成績にはなかなか結びつかなかった。ブルズはジョーダンのワンマンチームであり、彼が40点、50点を取った試合でも敗れることがしばしば。1987年のプレーオフでもセルティックスに3連敗し、ジョーダンのプレーオフ通算成績は1勝9敗となっていた。
新たに入団してくる選手もパッとしない連中ばかり。1987年にはセントラルアーカンソー大からスコッティ・ピッペンという男が入ってきたが、ジョーダンはそんな大学は聞いたこともなかったし、無名校出身のひょろひょろした優男に何ができるとも思えなかった。
個人的に好きではなかったジェリー・クラウス・ゼネラルマネージャーからは「君はピッペンを気に入ると思う」と聞かされたが、「どうだか。あんたが目をつけた選手じゃな」と言い放つ。"次のシーズンもこんな面子で戦わなければならないのか"と思うと、気が重くなっていた。
一方で、アーカンソー出身の青年は有頂天だった。数カ月前まで、スカウトからも知られていなかったような自分が、今やNBA選手となったのだ。しかもジョーダンと一緒のチーム。ピッペンは期待で胸を膨らませた。
個人としてすでに名声を得ていたジョーダンは、才能あふれるピッペンを徹底的に育て、2人は徐々に「師弟」から「史上最強のコンビ」へと成長していく。栄光に彩られた彼らのNBA人生だが、その道程は決して平坦なものではなかったのである。
■リーグ最高の選手の下に現われた、無名校出身の優男
マイケル・ジョーダンには、パートナーが必要だった。
1986-87シーズン、シカゴ・ブルズに入団して3年目、すでにジョーダンはスーパースターとなっていった。この年は平均37.1点というとてつもない数字を残し、初の得点王に輝く。前年のプレーオフ、ボストン・セルティックスとの試合では1試合で63得点を稼ぎ、ラリー・バードから「あれはジョーダンの姿をした神だ」との賛辞を贈られた。
だが、それがチームの成績にはなかなか結びつかなかった。ブルズはジョーダンのワンマンチームであり、彼が40点、50点を取った試合でも敗れることがしばしば。1987年のプレーオフでもセルティックスに3連敗し、ジョーダンのプレーオフ通算成績は1勝9敗となっていた。
新たに入団してくる選手もパッとしない連中ばかり。1987年にはセントラルアーカンソー大からスコッティ・ピッペンという男が入ってきたが、ジョーダンはそんな大学は聞いたこともなかったし、無名校出身のひょろひょろした優男に何ができるとも思えなかった。
個人的に好きではなかったジェリー・クラウス・ゼネラルマネージャーからは「君はピッペンを気に入ると思う」と聞かされたが、「どうだか。あんたが目をつけた選手じゃな」と言い放つ。"次のシーズンもこんな面子で戦わなければならないのか"と思うと、気が重くなっていた。
一方で、アーカンソー出身の青年は有頂天だった。数カ月前まで、スカウトからも知られていなかったような自分が、今やNBA選手となったのだ。しかもジョーダンと一緒のチーム。ピッペンは期待で胸を膨らませた。