7球団で永久欠番となっている背番号2だが、キャリアを通じてこのナンバーを着け続けた真の名選手は少ない。そもそも長い間、NBAには2番を着用した選手そのものがいなかったのだ。
これは、アマチュアでは背番号1~3を着けることができないのが理由だろう。最初に2番でプレーしたのは、NBAの前身であるBAAのセントルイス・ボマーズ(現在は消滅)に在籍したベラス・スモーリー。ジャンプショットの使い手で、1948年のみ2番を纏っていた。
その後、1972年にノーム・ヴァン・ライアー(元シカゴ・ブルズほか)が着用するまで、2番の選手は誰1人現われなかった。そのライアーは、3度オールディフェンシブ1stチームに選ばれた守備の名手。1974、76、77年とオールスターにも3度選出されている。
1976年にミルウォーキー・バックスのジュニア・ブリッジマンが着け始めてからは、NBAでも徐々に一般的な番号になる。正確なシュートで活躍したブリッジマンは、バックスの球団記録となる711試合に出場。1988年には、選手として初めて2番が欠番化された。
1980年代最高のスコアラーの1人であるアレックス・イングリッシュは、デンバー・ナゲッツでこの番号が欠番に。通算2万5613点は引退時点で歴代7位。バックスに在籍したプロ入り当時はブリッジマンがいたため23番、のちに22番に変更しプレーしていた。
サクラメント・キングスの欠番になっているミッチ・リッチモンドもシューター型のプレーヤーで、その実力はマイケル・ジョーダン(元ブルズほか)にも認められたほど。ルーキーイヤーから10年連続で平均20点超えを記録し、1995年のオールスターではMVPに輝いた。
2番史上最大の大物はモーゼス・マローンだろう。シーズンMVPを3度獲得した名センターで、着用期間は8年と短いが、1983年にフィラデルフィア・セブンティシクサーズを優勝に導き同球団の欠番となった。さらにヒューストン・ロケッツ時代の24番も欠番となっている。
これは、アマチュアでは背番号1~3を着けることができないのが理由だろう。最初に2番でプレーしたのは、NBAの前身であるBAAのセントルイス・ボマーズ(現在は消滅)に在籍したベラス・スモーリー。ジャンプショットの使い手で、1948年のみ2番を纏っていた。
その後、1972年にノーム・ヴァン・ライアー(元シカゴ・ブルズほか)が着用するまで、2番の選手は誰1人現われなかった。そのライアーは、3度オールディフェンシブ1stチームに選ばれた守備の名手。1974、76、77年とオールスターにも3度選出されている。
1976年にミルウォーキー・バックスのジュニア・ブリッジマンが着け始めてからは、NBAでも徐々に一般的な番号になる。正確なシュートで活躍したブリッジマンは、バックスの球団記録となる711試合に出場。1988年には、選手として初めて2番が欠番化された。
1980年代最高のスコアラーの1人であるアレックス・イングリッシュは、デンバー・ナゲッツでこの番号が欠番に。通算2万5613点は引退時点で歴代7位。バックスに在籍したプロ入り当時はブリッジマンがいたため23番、のちに22番に変更しプレーしていた。
サクラメント・キングスの欠番になっているミッチ・リッチモンドもシューター型のプレーヤーで、その実力はマイケル・ジョーダン(元ブルズほか)にも認められたほど。ルーキーイヤーから10年連続で平均20点超えを記録し、1995年のオールスターではMVPに輝いた。
2番史上最大の大物はモーゼス・マローンだろう。シーズンMVPを3度獲得した名センターで、着用期間は8年と短いが、1983年にフィラデルフィア・セブンティシクサーズを優勝に導き同球団の欠番となった。さらにヒューストン・ロケッツ時代の24番も欠番となっている。