■ブルズ加入を快く思わなかったジョーダンに実力を認めさせる
徐々に下降する成績や故障の多さなどにより、ビル・カートライトに対する周囲の風当たりは徐々に強くなり始めていた。そんななか、1985年のドラフト1位指名でニューヨーク・ニックスにパトリック・ユーイングが入団する。2人の強力なツインタワーをファンは期待したが、両選手とも生粋のセンターとあってほとんど機能できず。カートライトは1987-88シーズンから控えに回り、オフにはチャールズ・オークレーとの交換でシカゴ・ブルズへと放出された。
当時、オークリーはブルズのインサイドの要で、“マイケル・ジョーダンの用心棒”と言われた好選手だった。しかし、ブルズにはオークリーとポジションの被る22歳のホーレス・グラントがいたため、このトレードを首脳陣も了承。両軍にとって勝算のある取引だったが、24歳のリバウンダーと31歳の故障持ちセンターのトレードには、批判的な声も多かったという。
そして誰よりも不満を持っていたのは、オークリーと親しかったジョーダンだ。カートライトを大して評価していなかったジョーダンは、このトレードが間違いだったことを証明しようとする。チームメイトにはカートライトにボールを回さないように指示し、練習ではわざと強めのパスを送り「あいつはボールすらまともに取れない」と嘲った。
こうした仕打ちをずっと我慢してきたカートライトだったが、シーズン終盤になってついに堪忍袋の緒が切れる。彼はジョーダンを呼びつけ、こう言い放った。
「俺についていろんなことを言っているようだな。今後、俺にボールを回すななどと周りの連中に指示したら、二度とバスケットボールができないようにしてやるぞ」
後年になって、ジョーダンは次のように語っている。
「選手としても、人間としても、私が最も間違った評価を下していたのはカートライトだった」
1989年のプレーオフで、カートライトはその実力を見せつける。古巣ニックスと対戦したカンファレンス準決勝で、ユーイングを苦しめ勝利に貢献。ニューヨークのメディアは、「我々は決断を誤った」と嘆き、ジョーダンは「一緒にプレーしたなかで、彼は最高のセンターだ」と絶賛した。
徐々に下降する成績や故障の多さなどにより、ビル・カートライトに対する周囲の風当たりは徐々に強くなり始めていた。そんななか、1985年のドラフト1位指名でニューヨーク・ニックスにパトリック・ユーイングが入団する。2人の強力なツインタワーをファンは期待したが、両選手とも生粋のセンターとあってほとんど機能できず。カートライトは1987-88シーズンから控えに回り、オフにはチャールズ・オークレーとの交換でシカゴ・ブルズへと放出された。
当時、オークリーはブルズのインサイドの要で、“マイケル・ジョーダンの用心棒”と言われた好選手だった。しかし、ブルズにはオークリーとポジションの被る22歳のホーレス・グラントがいたため、このトレードを首脳陣も了承。両軍にとって勝算のある取引だったが、24歳のリバウンダーと31歳の故障持ちセンターのトレードには、批判的な声も多かったという。
そして誰よりも不満を持っていたのは、オークリーと親しかったジョーダンだ。カートライトを大して評価していなかったジョーダンは、このトレードが間違いだったことを証明しようとする。チームメイトにはカートライトにボールを回さないように指示し、練習ではわざと強めのパスを送り「あいつはボールすらまともに取れない」と嘲った。
こうした仕打ちをずっと我慢してきたカートライトだったが、シーズン終盤になってついに堪忍袋の緒が切れる。彼はジョーダンを呼びつけ、こう言い放った。
「俺についていろんなことを言っているようだな。今後、俺にボールを回すななどと周りの連中に指示したら、二度とバスケットボールができないようにしてやるぞ」
後年になって、ジョーダンは次のように語っている。
「選手としても、人間としても、私が最も間違った評価を下していたのはカートライトだった」
1989年のプレーオフで、カートライトはその実力を見せつける。古巣ニックスと対戦したカンファレンス準決勝で、ユーイングを苦しめ勝利に貢献。ニューヨークのメディアは、「我々は決断を誤った」と嘆き、ジョーダンは「一緒にプレーしたなかで、彼は最高のセンターだ」と絶賛した。