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「僕になれる人なら100万人はいるよ」自慢のシュートでNBAを生き抜いたジェフ・ホーナセックの物語【名脇役列伝・後編】

出野哲也

2020.06.05

ジャズでは2年連続のファイナル進出に貢献。現役最終年にはフリースロー成功率でリーグトップの95%を記録した。(C)Getty Images

■抜け目がなくてタフ――ピークを迎えたジャズ時代

 1992年にフェニックス・サンズからフィラデルフィア・セブンティシクサーズへ移籍した1年半後、ホーナセックはユタ・ジャズへトレードされる。子どもの頃、シカゴ・ブルズのスターだったジェリー・スローンのプレーを見て育った彼は、そのスローンがHCを務めるチームへの移籍を喜んだ。そしてジャズはホーナセックの技量を最大限に生かせるチームでもあった。カール・マローンがインサイドで相手ディフェンスを引きつけることで、フリーになる機会が多く生まれ、そこへジョン・ストックトンが的確なパスを送ってくれたからだ。

 また、ホーナセック自身もあらゆるテクニックを駆使してマークを振り切り、適切なポジショニングを取っていた。ジャズのアシスタントコーチ、ゴードン・キエーザが「ストックトンは周りの選手を上達させるが、ジェフはストックトンを上達させられる唯一の選手だ」と評したように、このガードコンビは絶妙のコンビネーションで相手を翻弄した。
 
「僕はいつでも考えながらプレーしている。正しい判断をすれば、スピードや敏捷性の不足を補えるからね」との持論を語っていたが、周囲の見解も同じだった。「彼以上に賢い選手はいない」(マローン)、「賢くて抜け目のない選手」(マイケル・ジョーダン)。さらにシャキール・オニールが「本当にタフなヤツ」と感服したほど精神面も強く、94年11月23日のシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)戦では8本連続で3ポイントを成功し、リーグ記録を樹立する。

 96年のプレーオフでも、最初の2試合で放った8本の3ポイントをすべて成功。同年のプレーオフでは3ポイント成功率が58.6%(58本中34本成功)の高水準で、カンファレンス決勝のソニックス戦では平均20.3点をマークした。さらに、97、98年は2年連続でファイナルの舞台に立ち、98年の第2戦ではチーム最多の20点。いずれもジョーダン率いるブルズに敗れたが、ホーナセックの存在感は際立っていた。

「シカゴで育った僕にとって、ファイナルでブルズと戦えたのはとても楽しかったし、夢のようだったよ」
 
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「誰もがジョーダンになれるわけじゃない。でも僕になれる人なら100万人はいるよ(笑)」