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「社会の不公平に断固たる態度を取ることを誇りに思う」引退後も闘い続ける真の戦士ビル・ラッセル【NBA秘話・後編】

大井成義

2020.06.06

チェンバレン(右)は宿敵であると同時に親友でもあった。しかし、69年のファイナル最終戦後の暴言が原因で仲違い。以後20年間も口を利かなかったという。(C)Getty Images

■〝白人の街〞に馴染めぬ巨人はファンへのサインすらも拒否

 ラッセルがプロ入りした1950年代後半から、アメリカでは公民権運動が急速に広がりを見せていた。黒人の人権問題といえば、アスリートではモハメド・アリの印象が強いが、最初に声を上げて立ち上がったのはラッセルだった。

 1961年、セルティックスがエキシビションゲームのためケンタッキー州レキシントンを訪れた際、チームメイトのKC・ジョーンズがホテル内のレストランでサービスを断られた。それを聞いて憤怒したラッセルはすぐさま空港に電話し、黒人のチームメイト5人分の航空券を手配、アワーバックに試合には出場しない旨を伝えてボイコット。全米を巻き込んでの論争へと発展した。

 1963年、マーティン・ルーサー・キングJr.がリンカーンの奴隷解放宣言100年を記念して開催したワシントン大行進にも、ラッセルは参加している。集会場ではステージに上がるよう勧められたが、敬意を表して辞退。あの有名な〝I Have a Dream〞のスピーチは、最前列で聞いたそうだ。

 1967年にアリが徴兵をボイコットした際の記者会見で、アリの隣に座っていたのはラッセルだった。写真にはカリーム・アブドゥル・ジャバーの姿も見える。メジャーリーグで初めてカラーバリアを破った英雄ジャッキー・ロビンソンの葬儀で、出棺時に先頭で棺を持っていたのもラッセルだ。当時、彼は次のように記している。
 
〝アメリカのニグロ(黒色人種)が自分の歴史を作ることができるのは、4世紀ぶりのこと。これ(公民権運動)に参加することは、起こり得る最も重要なことのひとつだ〞

 そんなラッセルの極端とも取れる主義主張や大胆な行動を、快く思わない白人のセルティックスファンも少なくはなく、むしろ〝アンチ・ホワイト(反白人)〞と受け止め、なかには敵意を剥き出しにする人もいた。元々ボストンは白人の街である。いくら連覇しても、先発全員が黒人のチームでは、観客数は半分程度の8000人。全員が白人のアイスホッケーは常に満席だった。

 また、ラッセルは真面目すぎるぶん、社交性に欠け、さらには閉鎖的で気難しい側面も持っていた。「ボストンのファンには偏狭さがはびこっている」と公言したこともあり、〝ファンとの間に貸し借りはない〞との考えから、生涯に渡ってサインを拒んだ。挙句の果てには、「私は子どもたちに微笑むことも、優しくすることも拒否する」と宣言し、怒り心頭に発したファンはラッセルを「自己中心的で偏執病的、偽善的だ」と非難した。