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【NBAデュオ列伝】ノビツキー&ナッシュ――どん底のマブズを強豪へ押し上げた史上最高の外国人コンビ|前編

出野哲也

2020.11.04

母国を離れて生活するノビツキーとナッシュは、同じ年にマブズに入団し意気投合。食事やアリーナ入りする時も行動を共にしていた。(C)Getty Images

■サッカー選手の父を持つスポーツ万能のナッシュ

 1998-99シーズン、NBAはロックアウトの影響で、50試合に短縮された。しかし、ダラス・マーベリックスのファンにとっては、シーズンの長さなどあまり関係がなかった。この年もまた、彼らの贔屓のチームは負け続けていたからだ。

 この年の新入団選手にも、さして希望は見出せなかった。大型トレードで移籍してきたカナダ人のポイントガードは期待外れのプレーを続け、HCのドン・ネルソンがベタ褒めしていた20歳のドイツ人ルーキーも、まだNBAのレベルには到達していなかった。果たしてチームに未来はあるのだろうか?

 だが未来はすぐそこまで来ていた。マーベリックスをどん底から救い上げたのは、その期待外れのポイントガード、スティーブ・ナッシュとアメリカに馴染めないドイツ人ルーキー、ダーク・ノビツキーの2人であった。
 
 ナッシュの父ジョンは、プロのサッカー選手だった。その血筋を受け継いだスティーブは、スポーツなら何をやらせても上手にこなした。父の教えを受けたサッカーでは、高校時代に州の最優秀選手に選ばれ、さらにラグビーやラクロス、カナダの国技アイスホッケーのいずれにも秀でた才能を示した。
 
 だが、ナッシュが最も魅せられたスポーツはバスケットボールだった。彼に興味を示した唯一の大学だったサンタクララ大に進むと、頭脳的なプレーと正確なシュート力で、新入生ながらスターターの座を射止めた。カンファレンス優勝3回の実績を引っさげ、ナッシュは96年ドラフト15位指名でフェニックス・サンズへと入団した。

 1年目から3ポイント成功率41.8%と、ナッシュのシュート力はNBAでも十分通用したのだが、入ったチームが悪かった。当時のサンズには、押しも押されもせぬスターポイントガードのケビン・ジョンソンがいたのだ。それだけではなく、シーズン途中にはジェイソン・キッドまでトレードで加入し、当然ルーキーのプレータイムは大幅に削られてしまった。

 それでも2年目には平均9.1点、3.4アシストと、バックアップとして合格点の働きを見せたナッシュに、マーベリックスが目をつけた。仕掛け人はネルソンHCの息子で、マーベリックスのアシスタント・コーチを務めるドニー・ネルソンだった。

 ナッシュとは大学時代からの友人で、サンズにナッシュの指名を進言したのも、当時サンズのフロントで働いていたドニーだった。3選手に加えドラフト1巡目指名権も追加する破格の交換条件でマーベリックスに迎え入れられたナッシュは、6年3300万ドルという長期契約を結んだ。

 しかし、大きな期待とは裏腹に、マーベリックスでの1年目はナッシュにとって厳しいものとなった。腰を痛めていたこともあって、FG成功率は36.3%と低迷。落胆したファンからはブーイングを浴びせられ、ゲームの重要な局面ではベンチに下げられるようにまでなってしまった。